二人目の参加者は、
休夢:(長岡休夢、休無=長岡忠隆?)
さくらそう会会報で森富夫さんは、この「長岡休夢」を三斎細川忠興の長男=忠隆(長岡休無)としています。
しかし、忠隆は、天正8年(1580年)の生まれで、この天正12年には、まだ4歳。茶席に親も無しで招かれるでしょうか?しかも、長岡休無と号したのは、1604年(慶長9年)の廃嫡後のことでこの時には、休夢=休無と呼ばれることはない筈です。ちなみに忠隆志の母は、玉子(細川ガラシャ)です。この「休夢」には、2つの説があります。
一つ目の説は、細川忠興(当時21歳)のことだとする説です。忠隆の号は、「三斎宗立」とされていますが、この「休夢」は、忠興の当時の号だったのではないか?というものです。
もう一つの説は、「小寺休夢斎」だったというものです。小寺休夢は、大永5年(1525年)生まれですから、この当時だと59歳です。
小寺休夢は、黒田孝高(よしたか)の叔父。播磨(はりま)(兵庫県)の人。豊臣秀吉の御伽(おとぎ)衆。天正(てんしょう)15年(1587)島津氏を討つための九州遠征にしたがっています。「休夢斎」と称し,秀吉の茶会に参加したことで知られています。名は高友。通称は千太夫でした。
忠興にしろ、小寺休夢斎にしろ、宮部継潤と同じ秀吉の配下の武将で、教養人。利休に師事するほど茶に精通していたことは同じですが、もうひとりの宮部継潤の「因幡という土地」と「その年齢の近さ」を考えるとこの後、小寺休夢斎が天正15年に九州へ秀吉と遠征することから見て、私は、小寺説をとりたいと思います。忠興の「休夢」という号にも無理があるように思われます。ただ、資料として、現在の「天王寺茶会記」資料に「長岡」のルビが入れてあることを見て、長岡休夢と解する人があるのも解らないでもないのですが、やはり原文で判断するのが重要かもしれません。
つまり、この桜草が飾られたのは、二人の秀吉配下の中国以西の地方を任されることとなる有力な武将が招かれた茶席なのです!!
このことを無視して、単に「桜草」という花が茶席に飾られたとしては、この当時の茶会、茶席のもつ意味を理解することはできません。茶会は、他に知られることのない武将たちが密会し、情報を交換する「場」として、当時は、重要な催しだったのです。
だとしたら、津田宗及の自ら催した(自会記の茶会)茶会とは、どんな意味をもっていたのでしょう?この二人の客が催したのでなく、津田宗及が催したことに意味が生まれてくるはずです。
また、「桜草」が飾られたことにも何か意味があったのでしょうか?どうしてもそんな疑問にぶつかります。天王寺会記という長く続いた茶会記にたった一回しか、登場しない「桜草」。
この花は、その茶会の目的、意味とどのような関係にあったのでしょう?たった一回だからこその「意味」を考えざるを得ないのは、私だけなのでしょうか?その背後に何かを読み取ろうとするのは、単なる「深読みしすぎ」ということになってしまうのでしょうか?
それを知るためには、この茶会の具体的な催され方・内容にも目を向けなければなりません。次章では、具体的に茶会の催され方を分析していきます。