直前の茶会は、どんな茶会だったのでしょう?
天王寺屋会記(自会記)を再度見てみましょう。

同三月二日朝

秀吉様 金森 蜂屋

催されたのは、三月二日。一昨日です。
客は、
秀吉様
金森
蜂屋

の3名のようです。

ここで、おや?と思うのは誰でも共通でしょう。
「秀吉様」とは、豊臣秀吉とすぐわかります。
「金森」は、金森(五郎八)長近。「蜂屋」は、蜂屋出羽守頼隆です。この二人を簡単にWikipediaの情報でご紹介しておきましょう。

金森長近:
織田氏、豊臣氏、徳川氏の家臣。名ははじめ「可近」(ありちか)。後に織田信長から長の一字を賜り、長近を名乗った。通称五郎八。法印素玄。飛騨守、兵部大輔。金森定近の次男(?)で金森可重の義父。飛騨高山藩初代藩主。
大永4年(1524年)に美濃国の多治見に生まれる。しかし父である定近は土岐氏の後継者争いで土岐頼武を支持したが、頼武は土岐頼芸に敗れて失脚してしまい、定近も程なくして美濃を離れ近江国野洲郡金森へと移住した。天文 (元号)10年(1541年)まで近江で過ごしたという。

【天正12年頃は、以下の通りです】
天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が家臣の明智光秀に討たれ(この際、嫡男金森長則は織田信忠と共におり討死。そのため長屋景重より可重を養子にとった)、勝家と羽柴秀吉が対立すると、柴田側に与したが、天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで勝家が秀吉に敗れて自刃すると、剃髪して降伏し、秀吉の家臣となった。
その後は小牧・長久手の戦いや佐々成政征伐、さらに姉小路頼綱の飛騨討伐などで功績を挙げたため、天正13年(1585年)、秀吉から飛騨一国を与えられた。文禄3年(1594年)頃には秀吉の御伽衆を務めたという(太閤軍記)



蜂屋頼隆:
天文3年(1534年)-天正17年9月25日(1589年11月3日)は、戦国時代の武将。美濃国に生まれ、はじめ土岐氏、次いで斎藤氏に仕えた。

織田信長の美濃攻めに前後して信長の家臣になったとみられているが、天文21年(1552年)の赤塚の戦いでは信長側の足軽として内藤勝介や長谷川橋介ほかとともに蜂屋般若介なる名が見られる。永禄年間初めには黒母衣衆に名を連ね、永禄2年(1559年)に信長が初めて上洛した際に同行している。


【天正12年頃は、以下の通りです】
天正10年(1582年)3月、武田勝頼攻めで信長に従軍するため信澄・明智・丹羽ほかの諸将と待機するが、信忠軍が勝頼を敗死させたため実戦には参加せずに終わる。信長が四国への侵攻を三男・信孝に命じた際には、丹羽長秀・津田信澄らと共に信孝の寄騎とされている。その直後に本能寺の変によって信長が横死すると明智光秀の女婿であった津田信澄が織田信孝と丹羽長秀に暗殺されているが、頼隆はこの際にはいずれにも与していない。信長の弔い合戦である山崎の戦いでは信孝に従って出陣した。
山崎の戦いの後、羽柴秀吉と柴田勝家、織田信孝らが対立した際には秀吉に属して信孝の居城である岐阜城を攻めている。こうした功績から戦後、越前国敦賀4万石を与えられている。また、この時期に正式に侍従に任官したらしく、あわせて秀吉より与えられた羽柴姓を称して羽柴敦賀侍従と呼ばれている。
その後も秀吉の配下として越中国の佐々成政を攻める際や、九州征伐に従軍しているが、天正17年(1589年)9月25日に死去した。


客はこれでわかりました。
直前の柴田勝家との戦いでの柴田に付いて敗れ、後に秀吉の配下となった金森と柴田勝家との戦いで貢献した蜂屋という武将二人です。実は、二人とも美濃の生まれで、土岐氏に仕えていたことがわかります。
柴田勝家との戦いの後に
信長のもとで共に戦い、秀吉との盟友であった蜂屋が柴田勝家に付いて、敵となり、敗れた同郷の金森を秀吉に仕官するようにはからって、この席を設けることを秀吉(宗及)に願いでたのではないか?
と考えるのは、私だけでしょうか?

次の章では、この茶会の中身を見ていきます!