さて、前に催されたの茶会はどのようなものだったのでしょう。
初めに茶会記をご覧ください。
催されたのは前々日でした。
同三月二日朝 秀吉様 金森 蜂屋
床ニかふらなし、水も不入、しきニ、
臺天目
風炉 吉野釜、五とくニ、
籠 いもかしら 金ノ合子
御手水之間二床ニ船子、かけて、
かふらなし、中へ引出し置、薄板二すへ、水も入て、
花、秀吉御いれなされ候、
薄茶 ひつミたるかうらい
晝過迄、 御放(咄)なされ候、
せイノタカキウハ口取寄テ、御目ニカケ申候、
先日にも「芋頭」は使われていました。
ただ、釜は、吉野釜。
花は最初は、生けられておらず、秀吉公が「御いれなされ候」ということは、秀吉が投入れたということですが、どんな花かは、述べられていません。
また、大事なのは、
晝過迄、 御放(咄)なされ候、
せイノタカキウハ口取寄テ、御目ニカケ申候、
という部分です。
昼過ぎまで、話込んだという部分と
背の高い姥口(の釜)を取寄せて、秀吉様に御目にかけたという話です。つまり、翌々日に使われた姥口の釜は、秀吉にお目にかけるために取寄せられた釜だっということです。
その釜を使って翌々日は、お茶が点てられたのです。
当然、釜も含め、前々日の秀吉様の茶会の話題がでないような茶会であったはずがないと思えます。
というよりは、前々日、昼まで話し込んだ内容が二日後の茶会には、伝えられるのが当たり前のような1日置いた二回の茶会だったのではないでしょうか?最初から、翌々日は予定されていた茶会だったと思えるのです。
さらにこの日から、お茶会は、続くのです。
同三月四日昼、(同じ日の昼)
同三月六日朝、(翌々日)
同日昼 (その同じ日の昼)
と続くのです!しかも、その次の茶会はと先に進むとその先には、不自然な紙の余白があり、その次の日付は、なんと
十一月二十九日朝
といきなり、十一月に飛びます。何故???
この自会記は、何か変です。
それを踏まえて、また前のページに目を移してみましょう。
では、三月二日の前の茶会は、いつだったのでしょう。
十日以上前の同二月二十一日朝 長岡(細川)幽斎
の茶会でした。
三月の頭の連日催された茶会に不思議なものを感じます。
しかも何故、その後、十一月迄茶会が催されないのでしょう?
さらに奇妙なのは、この茶会の記述のある第六巻天王寺屋茶会記(自会記)です。実はこの第六巻という巻は、その前の第五巻と記載されている期間が重なっている部分があるのです。第五巻と第六巻は重複する部分のある別巻といえるのです。
何故、同じ時期を別な巻に分けたのでしょう?
元々は、同じ巻の部分を別巻に後から分けたのでは?または、自会記にも二つの側面があって、元々、同じ時期であっても茶会の意味合いから別に記録されたのではないか。ということです。
このように考えるのが自然のような気がしてきます。特に意味があって、別な巻に分けられた茶会記、それが、第六巻です。
この第六巻という巻は、全巻に裏文書が見える巻なのです。宗及への来信や宗及の書状の下書きの裏面に書かれたのがこの第六巻なのです。第五巻とは、明らかに異なった時期に書きなおされたか、特別な意味があって、同じ会記として書かれなかった自会記なのです。
ここまで考えた上で次には、第五巻に書かれた同時期の茶会記について、お話ししましょう。