前章でお話した第六巻と比較するつもりで、第五巻に目を通してみます。
まず、天正十二年の二月から三月にこの第五巻の自会記には、いつ茶会が催されたことになっているのでしょう。
以下に日付を順に並べます。
天正十二年の最初からです。
二月四日
二月五日朝
同日 昼
二月六日朝
二月七日朝
二月八日朝
□
二月二十六日朝
□
三月十二日朝
三月十四日朝
四月二十二日朝
四月二十四日朝
同日 昼
五月六日昼
と続いています。
□を入れた部分が第六巻の日付の茶会が催され、この会記には書かれなかった茶会の部分です。
この時期の茶会は、芋頭や善好茶碗や船子の絵などこの時期の宗及茶会で用いられた道具が散見され、一貫性があります。
ただ、この間の茶会記録には、客として、秀吉の影は見えず、同じ堺や大阪の茶人たちが見られるのみなのです。
桜草の記述のある茶会記(自会記)「第六巻」とは何だったのでしょう?
秀吉とその取り巻く大名や関係者を招き、催された茶会。そこでは何が語られていたのでしょう?昼過ぎまで話し込んだ秀吉、秀吉のために取り寄せられた釜、その釜を使って催された茶会、連日茶会は続きますが、そのことは別な茶会記には記載されず、突然のように終わります。
それもそのはず、この後、秀吉は戦いに赴くのです。天正十二年三月、「小牧の陣・長久手の戦い」が始まります。
戦いの間の縫って催された茶会。戦いの当時者である大名と秀吉の会合だった茶会です。
その茶会の一つに唯一登場した桜草
どんな意味があったのかは解りません。全く意味もなく登場しているのかもしれません。
次の章では、この時期の津田宗及の「他会記」の記述をご覧にいれます。もちろん、第六巻の三月に連日催された茶会の分析も重要なのですが、ここは小休止といった感じで、その時期の宗及が呼ばれた茶会に目を転じてみましょう。
「他会記」つまり、他で催された茶会に宗及が客として呼ばれたときの記述です。
まず、天正十二年の二月から三月にこの第五巻の自会記には、いつ茶会が催されたことになっているのでしょう。
以下に日付を順に並べます。
天正十二年の最初からです。
二月四日
二月五日朝
同日 昼
二月六日朝
二月七日朝
二月八日朝
□
二月二十六日朝
□
三月十二日朝
三月十四日朝
四月二十二日朝
四月二十四日朝
同日 昼
五月六日昼
と続いています。
□を入れた部分が第六巻の日付の茶会が催され、この会記には書かれなかった茶会の部分です。
この時期の茶会は、芋頭や善好茶碗や船子の絵などこの時期の宗及茶会で用いられた道具が散見され、一貫性があります。
ただ、この間の茶会記録には、客として、秀吉の影は見えず、同じ堺や大阪の茶人たちが見られるのみなのです。
桜草の記述のある茶会記(自会記)「第六巻」とは何だったのでしょう?
秀吉とその取り巻く大名や関係者を招き、催された茶会。そこでは何が語られていたのでしょう?昼過ぎまで話し込んだ秀吉、秀吉のために取り寄せられた釜、その釜を使って催された茶会、連日茶会は続きますが、そのことは別な茶会記には記載されず、突然のように終わります。
それもそのはず、この後、秀吉は戦いに赴くのです。天正十二年三月、「小牧の陣・長久手の戦い」が始まります。
戦いの間の縫って催された茶会。戦いの当時者である大名と秀吉の会合だった茶会です。
その茶会の一つに唯一登場した桜草
どんな意味があったのかは解りません。全く意味もなく登場しているのかもしれません。
次の章では、この時期の津田宗及の「他会記」の記述をご覧にいれます。もちろん、第六巻の三月に連日催された茶会の分析も重要なのですが、ここは小休止といった感じで、その時期の宗及が呼ばれた茶会に目を転じてみましょう。
「他会記」つまり、他で催された茶会に宗及が客として呼ばれたときの記述です。
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津田宗及(天王寺屋)の茶会に見られる「桜草」 その6:「直前の茶会=もてなし」 |
茶花、立花としての桜草 |