トップ  >  さくらそう園芸の萌芽  >  茶花、立花としての桜草  >  松屋会記に見られる桜草:その1「松屋会記」とは
さくらそう会会報No.12の「さくらそうの茶花」で森富夫氏が天王寺屋会記での記述とともに取り上げている会記が「松屋会記」です。本章では、この松屋会記の「桜草」に関する記録を取り上げて、桜草が生けられた背景とその意味を探っていきます。

まず、初めに
「松屋会記」
とは何かを知ることが必要です。

「松屋会記」は、奈良の塗師 松屋の茶会記で、自身で催した茶会の記録ではなく、招かれた茶会を記録した他会記です。
天文2年(1533)に松屋久政(〜1598)によって起筆され、のち子の久好(〜1633)、孫の久重(1566〜1652)の3代にわたって慶安3年(1650)まで書き継がれたものを三代目の久重が編纂した、まとめたものといわれています。久政は天文2年(1533)から慶長元年(1596)、久好は天正14年(1586)から寛永3年(1626)、久重は慶長9年(1604)から慶安3年(1650)にわたって記されています。

その後、久重は、松屋の他会記や自会記から、利休・織部・三斎・遠州の四人が関わる茶会の様子を編纂し『茶道四祖伝書』を刊行しました。その意味では、自会記も存在していたのでしょう。この茶会記の特徴としては、他の茶席の仕立てを詳細に記録していることです。多分久重が他の茶会に学ぶための記録といった性格があったように思われます。仕立ても図入りで、料理の詳細も記録されていることから、この時代の料理研究にも重要な文献とされています。

さて、それでは、次の章では、実際に「桜草」が記録された寛永十一年三月の記述を見てみましょう。
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