三宅亡羊
コトバンク、全国名前辞典より転載:
1580.1.17(天正 8.1.1、12日生まれの説もあり)〜1649.7.27(慶安 2. 6.18)
江戸前期の儒者・茶人。幼名信俊,のち島または玄蕃、号に寄斎・喜斎・江南等、亡羊は字、別に江南野水翁の号を用いた。。和泉(岸和田)堺の人。通称福麿。11歳で父(父は豊臣秀吉に仕えた堺の五奉行の一人)を失い、19歳で伏見・京都に出て、大徳寺に学び、儒者となった。藤原惺窩とも交友があったが常師はいない。禁裏・公家衆より尊敬を受け、慶長年間に後陽成天皇より洛北鷹ヶ峰の地を賜わる。茶・香を好み、千宗旦の弟子で四天王の一人。慶安2年(1649)歿、70才。
著書については『寄斎文集』とされる文献と、著書は、わずかに『先哲叢談』後編(1830)、『間散続録』(写本、慶応義塾大学蔵)からその事績を知るのみと記述する文献もあり、どちらが正確かは、今のところは、不明です。以下に「先哲叢談」の三宅亡羊についての記述部分をご紹介します。
<参考>「先哲叢談」後編 巻一より
三宅寄齋、名は島、字は亡羊、江南野水翁と號す、通稱は寄齋、又以て號となす、一説に通稱は玄蕃(げんば)、和泉の人
寄齋は宇多源氏、佐々木秀義の第三子、三郎盛綱の裔〔末孫後胤〕なり、盛綱の第二子加地左兵衞尉信實邑を備後の兒島に食む、因りて地を以て氏となす、五世の孫兒島高徳備後三郎と稱し、殊に武功を以て元弘建武〔後醍醐天皇の年號〕の間に顯はる、後大和の多武峰(たむのみね−ママ)に隱れ、入道して〔佛門に歸す〕義清法師と號す、其子孫皆足利將軍に給仕(きふし)す、寄齋は高徳七世の孫なり、父某豐太閤(*原文「閣」は誤植。)に仕へ、泉州堺五奉行の一人となると云ふ
寄齋歳十一にして父を失ひ、復た仕官せず、十九にして伏見に遊び、又京に遊ぶ、紫野大徳寺に寓して、書を讀み、力學(りよくがく−ママ)する〔學を勤む〕こと此に年あり、遂に醇儒(じゆんじ−ママ)〔純粹の儒者〕を以て聞ゆ、其學常師〔定まりたる先生〕なく、自ら漢唐の註疏を以て、子弟に教授す、間ま程朱の書を講ず、從ひ學ぶ者頗る衆し
寄齋少壯より性行苟(いやしく)もせず〔軽々しくせぬこと〕、伏見に遊ぶ時、隣に富翁あり、一女容色甚だ都(と)〔雅にして美〕なり、甞て寄齋を招ぎて家に寓宿せしめんとす、辭して行かず、他日或人之を問へば、曰く瓜田に履を把らず〔嫌疑を避くる成語〕と
石田三成近江の佐和山に在り、文學の士を崇重(しうちやう)し、藤原惺窩を招(まね)ぐ、惺窩行かんとして果さす(*「ず」の誤植。)、又寄齋の名を聞き、其臣戸田某をして禮を卑(ひく)くし〔辭を鄭重にす〕幣を厚くし、慇懃(いんきん−ママ)〔懇親〕を通ぜしむ、約するに時々經史を講説し、治道(ぢだう−ママ)を訓導せんことを以てす、恩遇〔待遇の厚きこと〕頗る優なり、三成の意蓋し入幕の賓〔典故ある語にて幕僚たること〕を以て機密(きぐう−ママ)を謀謨(ばうぼ)し、得失を論定せんと欲するなり、時に秀吉既に薨じて、群僚和せず、朋黨相搆ひ、人々異志を蓄ふ〔謀叛の意なり〕、三成秀頼に固結し、勢い朝野を傾け、之に附する者衆し、寄齋之と往來すること僅に三囘、病ありと稱して再び交はらず、既に三成が善良を誣告(ふこく−ママ)し、不軌を包藏し〔叛心を抱く〕、權柄(けんへい)を擅(ほしいまゝ)にせんと欲することを知るなり、其翌年に至り、果して關原の役ありといふ、三成の臣柏原某寄齋と友とし善し、其完聚(くわんしう)〔盛にして流散せざること〕の時に當り、賄(まいな)ふ〔■(貝+各:ろ・る:まいなう・まいない・財貨:大漢和36738)〕に金十五兩を以てし、縁故を吐露し〔ワケをイフ〕、固く三成に左袒し〔味方する〕、麾下に屬せんことを請ふ、寄齋肯んぜず〔承知せず〕
寄齋資性謙虚〔己を空くして人に下る〕にして退讓自ら將ゐ、敢て名の高さを欲せず、然りと雖も其操行を聞き、慕附する者衆し、特に藤惺窩と交情最も密なり、惺窩は寄齋より長ずること十九歳、而も之を愛敬し、稱して以て謹厚の君子となす
寄齋歳不惑〔四十〕を踰えて、其學術を信ずる者少なからずとなす、近衞應山侯(左大臣尋信公)津公高虎(藤堂和泉守)福岡侯長政(黒田筑前守)宇和島侯秀宗(伊達遠江守)弘前侯信義(津軽越中守)關宿侯重宗(板倉周防守、時に京都所司代)等皆賓師〔臣とせずして先生とす〕の禮を以て之を遇す、饋贈(くわいさう−ママ)〔送りもの〕も亦尠(*原文ルビ「すくな」は一字衍字。)なからず、故に禄四五百石を以て、之を聘する者ありと雖も、辭して應ぜず
寄齋久しく輦轂(れんこく)〔天子の膝下〕の下に教授し、道を縉紳〔公卿〕の間に唱へ、學博く行修まり、後進に領袖〔頭領株〕たるを以て、聲一時に高く、竟に叡聞に達し〔天子の御耳に達す〕、後陽成天皇、後水尾天皇皆内旨あり、辟(め)して經を便殿(べんでん)に講ぜしめ、屡顧問〔諸事の御下問〕に備へらる、寵遇〔眷顧恩顧〕優渥、布衣(ふい)〔無位無官〕を以て昇りて公卿(こうけい)と禁■(門構+韋:き:宮中の小門・役所:大漢和41425)(きんゐ−ママ)〔禁裡〕に列することを得たり、又器財名香の賜あり、人皆之を榮とす
寄齋天正八年庚辰正月元日を以て、泉州堺に生れ、慶安二年己丑六月十八日を以て、平安油小路の家に歿す、壽を得ること七十、洛北〔京都の北郊〕鷹峰(たかのみね)に葬る、其墓石の正面に亡羊子之墓の七字を題するのみ、此地は後陽成帝の寄齋に賜ふ所、鷹峰四十間四方塚といふものなり
寄齋の義子〔養子〕名は道乙、字は子燕、鞏革齋(きやうかくさい)と號す、平安の人、本姓は合田氏、寄齋に學び、其師説〔先生の意見〕を篤信するを以て、之を養ひて嗣(つぎ)となし、女を以て之に妻(めあ)(*原文ルビ「めは」は誤植か。)はし、三宅氏を冒さ〔稱す〕しむと云ふ、道乙史學に精(くわし)く、甞て國訓〔假名の和讀〕を朱子の通鑑綱目に施して世に刊行す、今坊間に之を道乙點と稱す、後進之を便とす、其裔分れて四家となる、一は三宅氏と曰ひ、津侯に仕ふ、二は合田氏と曰ひ、阿波侯に仕ふ、三は又三宅氏と曰ひ、備前侯に仕ふ、四は星合氏と曰ひ、中津侯に仕ふ、皆能く箕裘〔遺業〕を繼ぎて家聲を墮(おと)さず、今日に至ると云ふ、中に就き近時備前の三宅徴、字は元献、牧羊と號す、津の三宅昌綏、字は君靜、錦川と號す、皆經義を以て世に名あり、蓋し皆寄齋が徳澤〔徳の高きオカゲ〕の及ぶ所なりと云ふ
寄齋が曾祖名は宗徹、字は通翁、葦牧齋(ゐぼくさい)と號す、永正中甞て使を奉じて明に入り〔足利將軍の使節となり明に渡る〕、■(贍の旁:せん・たん:多言する・至る・見る・補給する、ここは人名:大漢和35458)仲和(せんちうわ)を見る、(名は僖、字を以て行はる、錢塘(せんたう)の人書畫を善くす)葦牧齋の額字を書せんことを請ひ、之を得て還る、其眞蹟〔親筆〕三字の行書及び跋文一幅、今尚家に傳へて、以て珍寶となす。
<以上、転載>
結論としては、武家に生まれたが儒者として育ち、茶にも通じて、天皇家に親しく出入りすだけではなく、藤堂家などの様々な武家に師として、厚遇された人物ということになります。堺に生まれて、この当時は、京都に居を構えていたようです。
さて、この人物は、どの程度の頻度でこの松屋会記に登場するのでしょう。その事で松屋久重との関係の深さや程度を推し量ることもできると思います。
宗旦の四天王といわれる程の茶人です。久重は茶を学ぶために喜んでその招きに応じていたように思えます。
次章では、松屋会記での三宅亡羊(奇斎、壽斎)の茶会に関する記述部分を見てみましょう。
コトバンク、全国名前辞典より転載:
1580.1.17(天正 8.1.1、12日生まれの説もあり)〜1649.7.27(慶安 2. 6.18)
江戸前期の儒者・茶人。幼名信俊,のち島または玄蕃、号に寄斎・喜斎・江南等、亡羊は字、別に江南野水翁の号を用いた。。和泉(岸和田)堺の人。通称福麿。11歳で父(父は豊臣秀吉に仕えた堺の五奉行の一人)を失い、19歳で伏見・京都に出て、大徳寺に学び、儒者となった。藤原惺窩とも交友があったが常師はいない。禁裏・公家衆より尊敬を受け、慶長年間に後陽成天皇より洛北鷹ヶ峰の地を賜わる。茶・香を好み、千宗旦の弟子で四天王の一人。慶安2年(1649)歿、70才。
著書については『寄斎文集』とされる文献と、著書は、わずかに『先哲叢談』後編(1830)、『間散続録』(写本、慶応義塾大学蔵)からその事績を知るのみと記述する文献もあり、どちらが正確かは、今のところは、不明です。以下に「先哲叢談」の三宅亡羊についての記述部分をご紹介します。
<参考>「先哲叢談」後編 巻一より
三宅寄齋、名は島、字は亡羊、江南野水翁と號す、通稱は寄齋、又以て號となす、一説に通稱は玄蕃(げんば)、和泉の人
寄齋は宇多源氏、佐々木秀義の第三子、三郎盛綱の裔〔末孫後胤〕なり、盛綱の第二子加地左兵衞尉信實邑を備後の兒島に食む、因りて地を以て氏となす、五世の孫兒島高徳備後三郎と稱し、殊に武功を以て元弘建武〔後醍醐天皇の年號〕の間に顯はる、後大和の多武峰(たむのみね−ママ)に隱れ、入道して〔佛門に歸す〕義清法師と號す、其子孫皆足利將軍に給仕(きふし)す、寄齋は高徳七世の孫なり、父某豐太閤(*原文「閣」は誤植。)に仕へ、泉州堺五奉行の一人となると云ふ
寄齋歳十一にして父を失ひ、復た仕官せず、十九にして伏見に遊び、又京に遊ぶ、紫野大徳寺に寓して、書を讀み、力學(りよくがく−ママ)する〔學を勤む〕こと此に年あり、遂に醇儒(じゆんじ−ママ)〔純粹の儒者〕を以て聞ゆ、其學常師〔定まりたる先生〕なく、自ら漢唐の註疏を以て、子弟に教授す、間ま程朱の書を講ず、從ひ學ぶ者頗る衆し
寄齋少壯より性行苟(いやしく)もせず〔軽々しくせぬこと〕、伏見に遊ぶ時、隣に富翁あり、一女容色甚だ都(と)〔雅にして美〕なり、甞て寄齋を招ぎて家に寓宿せしめんとす、辭して行かず、他日或人之を問へば、曰く瓜田に履を把らず〔嫌疑を避くる成語〕と
石田三成近江の佐和山に在り、文學の士を崇重(しうちやう)し、藤原惺窩を招(まね)ぐ、惺窩行かんとして果さす(*「ず」の誤植。)、又寄齋の名を聞き、其臣戸田某をして禮を卑(ひく)くし〔辭を鄭重にす〕幣を厚くし、慇懃(いんきん−ママ)〔懇親〕を通ぜしむ、約するに時々經史を講説し、治道(ぢだう−ママ)を訓導せんことを以てす、恩遇〔待遇の厚きこと〕頗る優なり、三成の意蓋し入幕の賓〔典故ある語にて幕僚たること〕を以て機密(きぐう−ママ)を謀謨(ばうぼ)し、得失を論定せんと欲するなり、時に秀吉既に薨じて、群僚和せず、朋黨相搆ひ、人々異志を蓄ふ〔謀叛の意なり〕、三成秀頼に固結し、勢い朝野を傾け、之に附する者衆し、寄齋之と往來すること僅に三囘、病ありと稱して再び交はらず、既に三成が善良を誣告(ふこく−ママ)し、不軌を包藏し〔叛心を抱く〕、權柄(けんへい)を擅(ほしいまゝ)にせんと欲することを知るなり、其翌年に至り、果して關原の役ありといふ、三成の臣柏原某寄齋と友とし善し、其完聚(くわんしう)〔盛にして流散せざること〕の時に當り、賄(まいな)ふ〔■(貝+各:ろ・る:まいなう・まいない・財貨:大漢和36738)〕に金十五兩を以てし、縁故を吐露し〔ワケをイフ〕、固く三成に左袒し〔味方する〕、麾下に屬せんことを請ふ、寄齋肯んぜず〔承知せず〕
寄齋資性謙虚〔己を空くして人に下る〕にして退讓自ら將ゐ、敢て名の高さを欲せず、然りと雖も其操行を聞き、慕附する者衆し、特に藤惺窩と交情最も密なり、惺窩は寄齋より長ずること十九歳、而も之を愛敬し、稱して以て謹厚の君子となす
寄齋歳不惑〔四十〕を踰えて、其學術を信ずる者少なからずとなす、近衞應山侯(左大臣尋信公)津公高虎(藤堂和泉守)福岡侯長政(黒田筑前守)宇和島侯秀宗(伊達遠江守)弘前侯信義(津軽越中守)關宿侯重宗(板倉周防守、時に京都所司代)等皆賓師〔臣とせずして先生とす〕の禮を以て之を遇す、饋贈(くわいさう−ママ)〔送りもの〕も亦尠(*原文ルビ「すくな」は一字衍字。)なからず、故に禄四五百石を以て、之を聘する者ありと雖も、辭して應ぜず
寄齋久しく輦轂(れんこく)〔天子の膝下〕の下に教授し、道を縉紳〔公卿〕の間に唱へ、學博く行修まり、後進に領袖〔頭領株〕たるを以て、聲一時に高く、竟に叡聞に達し〔天子の御耳に達す〕、後陽成天皇、後水尾天皇皆内旨あり、辟(め)して經を便殿(べんでん)に講ぜしめ、屡顧問〔諸事の御下問〕に備へらる、寵遇〔眷顧恩顧〕優渥、布衣(ふい)〔無位無官〕を以て昇りて公卿(こうけい)と禁■(門構+韋:き:宮中の小門・役所:大漢和41425)(きんゐ−ママ)〔禁裡〕に列することを得たり、又器財名香の賜あり、人皆之を榮とす
寄齋天正八年庚辰正月元日を以て、泉州堺に生れ、慶安二年己丑六月十八日を以て、平安油小路の家に歿す、壽を得ること七十、洛北〔京都の北郊〕鷹峰(たかのみね)に葬る、其墓石の正面に亡羊子之墓の七字を題するのみ、此地は後陽成帝の寄齋に賜ふ所、鷹峰四十間四方塚といふものなり
寄齋の義子〔養子〕名は道乙、字は子燕、鞏革齋(きやうかくさい)と號す、平安の人、本姓は合田氏、寄齋に學び、其師説〔先生の意見〕を篤信するを以て、之を養ひて嗣(つぎ)となし、女を以て之に妻(めあ)(*原文ルビ「めは」は誤植か。)はし、三宅氏を冒さ〔稱す〕しむと云ふ、道乙史學に精(くわし)く、甞て國訓〔假名の和讀〕を朱子の通鑑綱目に施して世に刊行す、今坊間に之を道乙點と稱す、後進之を便とす、其裔分れて四家となる、一は三宅氏と曰ひ、津侯に仕ふ、二は合田氏と曰ひ、阿波侯に仕ふ、三は又三宅氏と曰ひ、備前侯に仕ふ、四は星合氏と曰ひ、中津侯に仕ふ、皆能く箕裘〔遺業〕を繼ぎて家聲を墮(おと)さず、今日に至ると云ふ、中に就き近時備前の三宅徴、字は元献、牧羊と號す、津の三宅昌綏、字は君靜、錦川と號す、皆經義を以て世に名あり、蓋し皆寄齋が徳澤〔徳の高きオカゲ〕の及ぶ所なりと云ふ
寄齋が曾祖名は宗徹、字は通翁、葦牧齋(ゐぼくさい)と號す、永正中甞て使を奉じて明に入り〔足利將軍の使節となり明に渡る〕、■(贍の旁:せん・たん:多言する・至る・見る・補給する、ここは人名:大漢和35458)仲和(せんちうわ)を見る、(名は僖、字を以て行はる、錢塘(せんたう)の人書畫を善くす)葦牧齋の額字を書せんことを請ひ、之を得て還る、其眞蹟〔親筆〕三字の行書及び跋文一幅、今尚家に傳へて、以て珍寶となす。
<以上、転載>
結論としては、武家に生まれたが儒者として育ち、茶にも通じて、天皇家に親しく出入りすだけではなく、藤堂家などの様々な武家に師として、厚遇された人物ということになります。堺に生まれて、この当時は、京都に居を構えていたようです。
さて、この人物は、どの程度の頻度でこの松屋会記に登場するのでしょう。その事で松屋久重との関係の深さや程度を推し量ることもできると思います。
宗旦の四天王といわれる程の茶人です。久重は茶を学ぶために喜んでその招きに応じていたように思えます。
次章では、松屋会記での三宅亡羊(奇斎、壽斎)の茶会に関する記述部分を見てみましょう。
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松屋会記に見られる桜草:その2「桜草」が登場する記述を見る |
茶花、立花としての桜草 |
松屋会記に見られる桜草:その4 茶席の主人、三宅亡羊との茶席を知る |