初出:
寛永四年三月三十日朝
関九左衛門へ(京都中筋町、惣年寄正左)
壽斎 右京殿 久重 同(松屋)左太郎四人
寛永九年九月九日晩
藤堂大学様 勢州ノ津御城ニテ御茶湯
嶋主澱介、京三宅壽斎、京 丹斎、久重四人
藤堂大学様は、大学頭高次(1601-76)、高虎の子、伊勢・伊賀両国の大名
同年十月五日朝に
三宅壽斎へ 久重一人
そして寛永十一年の三月の桜草が登場する日となる
この日も
京都三宅壽斎へ
と三宅宅での茶席です。
その後は、
同年七月五日朝
京都三宅奇斎へ
京十二屋 源佐衛門 久重二人
という記述がある。この場合は、源佐衛門としている。
そして、翌六日の朝に
藤堂大学様 京都堀川御屋敷ニテ 金 子ニテ、立可申旨御意ニテ、立申者也
天目
参加したのは、三宅奇斎、京ノ丹斎、藤堂 女殿(元則、藤堂家の家臣)、藤堂監物殿、
同四郎右衛門殿、弧の五人
御意ニテ出テ、御茶御呑候、御相伴ニテ
その次は、
寛永十二年十月十七日朝
藤堂大学様 勢州津ノ御城ニテ 御相伴ニ而
三宅奇斎、望、丹斎、正佐(正左?) 久重五人
最後は、
寛永十五年正月二十八日晩
京都三宅奇斎へ 久重一人
<以上です>
三宅奇斎の登場する茶会は、
その1:
三宅奇斎宅での茶席に呼ばれる
その2:
藤堂大学の屋敷、または城での茶席に三宅奇斎と同席する
の2種類しかないことが解ります。つまり、
奇斎に茶を学ぶために一人、または友人と一緒に三宅奇斎宅を訪問するか、
三宅奇斎を呼んだ藤堂大学の席に同席するか、
の二通りです。
ここでは、奇斎の茶を学ぼうとする久重と三宅奇斎と藤堂他大学頭との関係に関わりのある久重が見えるということになります。
学ぼうと奇斎の茶席を訪ねた久重の前に奇斎が
桜草を生けた
という図が見えてきます。
これ以上の内容は、松屋会記を離れて、三宅亡羊の周辺、三宅亡羊の茶会(松屋会記に登場しない)や三宅邸の庭園や桜草を三宅亡羊の茶席に飾ることが背景を知ることが必要となります。
次の章では、松屋会記を離れて、三宅亡羊邸とこの時代の背景を見ていきたいと思います。
寛永四年三月三十日朝
関九左衛門へ(京都中筋町、惣年寄正左)
壽斎 右京殿 久重 同(松屋)左太郎四人
寛永九年九月九日晩
藤堂大学様 勢州ノ津御城ニテ御茶湯
嶋主澱介、京三宅壽斎、京 丹斎、久重四人
藤堂大学様は、大学頭高次(1601-76)、高虎の子、伊勢・伊賀両国の大名
同年十月五日朝に
三宅壽斎へ 久重一人
そして寛永十一年の三月の桜草が登場する日となる
この日も
京都三宅壽斎へ
と三宅宅での茶席です。
その後は、
同年七月五日朝
京都三宅奇斎へ
京十二屋 源佐衛門 久重二人
という記述がある。この場合は、源佐衛門としている。
そして、翌六日の朝に
藤堂大学様 京都堀川御屋敷ニテ 金 子ニテ、立可申旨御意ニテ、立申者也
天目
参加したのは、三宅奇斎、京ノ丹斎、藤堂 女殿(元則、藤堂家の家臣)、藤堂監物殿、
同四郎右衛門殿、弧の五人
御意ニテ出テ、御茶御呑候、御相伴ニテ
その次は、
寛永十二年十月十七日朝
藤堂大学様 勢州津ノ御城ニテ 御相伴ニ而
三宅奇斎、望、丹斎、正佐(正左?) 久重五人
最後は、
寛永十五年正月二十八日晩
京都三宅奇斎へ 久重一人
<以上です>
三宅奇斎の登場する茶会は、
その1:
三宅奇斎宅での茶席に呼ばれる
その2:
藤堂大学の屋敷、または城での茶席に三宅奇斎と同席する
の2種類しかないことが解ります。つまり、
奇斎に茶を学ぶために一人、または友人と一緒に三宅奇斎宅を訪問するか、
三宅奇斎を呼んだ藤堂大学の席に同席するか、
の二通りです。
ここでは、奇斎の茶を学ぼうとする久重と三宅奇斎と藤堂他大学頭との関係に関わりのある久重が見えるということになります。
学ぼうと奇斎の茶席を訪ねた久重の前に奇斎が
桜草を生けた
という図が見えてきます。
これ以上の内容は、松屋会記を離れて、三宅亡羊の周辺、三宅亡羊の茶会(松屋会記に登場しない)や三宅邸の庭園や桜草を三宅亡羊の茶席に飾ることが背景を知ることが必要となります。
次の章では、松屋会記を離れて、三宅亡羊邸とこの時代の背景を見ていきたいと思います。
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