桜草が登場する最も古い文献として、取り上げられることの多い
大乗院寺社雑事記(尋尊大僧正の日記)

大乗院は南都興福寺の子院 室町期隆盛を誇っていました。この日記を書いた「尋尊(じんそん)大僧正」は公卿一条兼良の子で大乗院27代門跡・興福寺別当(180世)ともなった僧です。母は中御門宣俊の娘です。一条兼良は当代一流の学者・歌人でした。その子である尋尊も公家文化の継承・体現者といえるでしょう。

尋尊(Wikipediaより:「尋尊」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2011年1月8日(土)23:10 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org)
じんそん、永享2年8月7日(1430年8月25日)- 永正5年5月2日(1508年5月31日)
永享10年(1438年)室町幕府から罪を得て去った経覚のあとを受けて大乗院に入り、以後70年間在院した。同12年(1440年)に得度。維摩会研学竪義(ゆいまえけんがくりゅうぎ)を遂げ、少僧都・大僧都を経て僧正に任じられ、康正2年(1456年)興福寺別当に就任した。のち法務に任じられ、奈良長谷寺・橘寺・薬師寺の別当をも兼任した。応仁の乱(1467年−1477年)では父兼良の日記『藤河ノ記』を兵火から守った(『群書類従』所収)。

大乗院寺社雑事記
奈良興福寺大乗院門跡尋尊(じんそん)・政覚(せいかく)・経尋(きょうじん)の日記の総称。内閣文庫蔵。うち1450年―1508年の約60年間にわたる尋尊の日記は,応仁・文明の乱前後の社会情勢,土一揆,世相などを克明に描写した,室町中・末期の重要史料として知られています。


桜草は、この大乗院の庭園についての記述に登場します。
次章では、その部分をご紹介します。