三宅亡羊(奇斎)の略歴には、
「禁裏・公家衆より尊敬を受け、慶長年間に後陽成天皇より洛北鷹ヶ峰の地を賜わる。」とあります。
松屋会記に桜草が登場する寛永九年は、その2〜30年程度後となります。亡羊の墓もこの地にあることから、寛永九年当時も居宅はこの「鷹ヶ峰」の地にあったと考えられます。

もう一人、この鷹ヶ峰の土地を賜った人物がいます。本阿弥光悦です。文献からその部分をご紹介します。鷹ヶ峰に建立されている「圓成寺」についてのガイドを以下にご紹介します。

日蓮宗本満寺派 清雲山 圓成寺     ・「洛陽十二支妙見巡り」第十二番《亥(い)=北北西》霊所
京都市北区鷹峯北鷹峯町24


京都北西部、鷹ヶ峰東麓の船山に鎮座する「圓成寺」。鷹ヶ峰一帯の丘陵地は、江戸時代の芸術家本阿弥光悦が、元和元年(1615)、徳川家康から寄進された地域。光悦は、この地に親族・縁者を集め大芸術村をつくった。また、光悦は熱心な法華経信者であったことから、一角に本阿弥家代々の位牌堂(現光悦寺)を建立している。圓成寺は、この光悦寺の北側にある。
 圓成寺の山門を入り、社務所前を過ぎると左手に、三宝尊と四菩薩(一塔両尊四士)そして宗祖日蓮上人像が祀られている本堂。そして小さな池を渡った正面に妙見大菩薩を祀る岩戸妙見宮があるが参拝者も少なく静まり返っている。その他、境内には巌門(いわと)の瀧、秋山自雲霊神(痔の神)、常富稲荷(地主神)を祀る常富殿、大黒殿、白雲弁天社(当寺の守護神)などが祀られている。岩戸妙見宮の左奥に巖門(いわと)の滝がある。裏山の霊地(平安京の霊巌寺の岩門に比定)から導かれた霊水で、入滝修行に使われているという。また、境内の墓地には儒者三宅亡羊(ぼうよう)・貞謙(ていけん)ら一族の墓がある。
<以上、圓成寺案内より>

さて、ここで新たに登場してくるのが、
後陽成天皇、本阿弥光悦、徳川家康です。
どうも鷹ヶ峰は、天皇と家康からそれぞれ、三宅亡羊と本阿弥光悦に賜われた土地ということになるようです。慶長年間に亡羊。その慶長に続く、元和年間に本阿弥光悦というわけです。しかも、光悦は芸術村をつくったのですから、亡羊とこの狭い場所で縁ができなかったとは到底考えられません。

一体、どんな関係だったのでしょう?天皇家、後陽成天皇(後水尾天皇も三宅亡羊を懇意にしていました)と徳川家、特に徳川家康、不思議な取り合わせです。彼らは、この地を訪れ、三宅亡羊や本阿弥光悦の茶会などに招かれたのでしょうか?
次の章では、この地と本阿弥光悦、三宅亡羊の交流に踏み込んでみましょう。