大乗院寺社雑事記が書き始められたのが、1450年です。尋尊大僧正は、その1年後、1451年(宝徳3年)に徳政一揆によって焼失した大乗院の建物と同時に庭園も造園しなおします。
このとき、室町時代を代表する庭師の善阿弥がその任にあたりました。庭園内に西小池が造られたのはこの時と考えられています。この桜草が登場する庭は、善阿弥によって創られた庭園だったのです。
ここで少し、善阿弥という人物をご紹介しましょう。
善阿弥
(ぜんあみ、元中3年/至徳3年(1386年)? - 文明14年(1482年)?)は室町時代の庭師。河原者という被差別身分の出身ながら、室町幕府の八代将軍足利義政に重用されました。
善阿弥作と伝えられるものに、長禄2年(1458年)の相国寺蔭涼軒、寛正2年(1461年)の花の御所泉殿、その翌年の高倉御所泉水、文正元年(1466年)の相国寺山内睡隠軒があります。応仁の乱の最中は奈良に移り、興福寺大乗院なども手掛けました。生年は、没時に97歳とあることからの推測で、明徳4年(1393年)ともいわれています。
興福寺中院の作庭においての待遇は「毎日三十疋、引物二千疋、手の物十一人、毎日人別二十疋宛、引物惣中五百疋」というものだったようです(『経覚私要鈔』)。睡隠軒の作庭を見た季瓊真蘂は「少岳を築るを見る。善阿の築く所、その遠近峯?、尤も奇絶たるなり。これに対するに飽かず。忽然として帰路を忘るなり。」と賞賛しました。晩年の善阿弥が病床に伏した際には、義政は使者を遣わして見舞い、高貴な薬を届けたといいます。
子の小四郎らも庭師として仕え、慈照寺(銀閣寺)の庭園は彼の子の二郎、三郎、及び彼の孫の又四郎による作品です。善阿弥などの作庭に携わった者や、作業を行った熟練した技術を持つ河原者たちを、特に山水河原者とも称します。
善阿弥とその配下の山水河原者たちがこの庭を作り上げたことがわかります。どのように、どんな庭を作り上げたのでしょう。その庭には、どんな草花や草木が、何故植えられたのでしょう。
次章では、この大乗院が建つ土地、場所、大乗院という寺のもつこの時代の役割を発見していきます。
この寺の存在、その目的にあった庭が求められたのです。