【国指定文化財等データベース】より
富本節(とみもとぶし)はいわゆる江戸浄瑠璃の一派で、常磐津節より分かれて始まり、後にここから清元節が生まれた。安永、天明期を全盛として以後は衰退の一途をたどり、今日ではその演奏に接する機会はほとんどない。曲調が常磐津のそれより派手であり、天明期らしく濃艶で、江戸歌舞伎の出語(でがた)りとして一世を風靡し、品格の高いものとして家庭の子女の間でも流行した。しかし声の使い方に千変万化の妙を尽くし、一層細かい微妙な節廻しの清元の出現の前に、影を薄くしてしまった。「其俤浅間嶽(そのおもかげあさまがだけ)」や「鞍馬獅子(くらまじし)」など幽艶な曲にそのおもしろさを発揮した。
これを開いたのは初代常磐津文字太夫の門人小文字太夫で富本豊前掾(ぶぜんのじょう)を名のった。全盛期をつくり出したのは二代目豊前掾で四代目まで続いたが、明治二二年一時家元が絶えてしまった。その後復活されたものの僅かに命脈を保つのみで、伝承者富本都路(とみもとみやこじ)も遂に没した。
【Wikipedia】より
富本節(とみもとぶし)または富本(とみもと)とは、三味線音楽のひとつで、浄瑠璃の一種。
【概要】
初代富本豊前掾が1748年に創始したものである。豊前掾は宮古路豊後掾の門弟で常磐津節から独立した形で富本豊志太夫を名乗り富本節を興した。その後豊前掾の実子2代目富本豊前太夫が活躍し全盛をしたが、その後富本節からは清元節が興され人気を得ると次第に衰退。
【家元】
宗家家元は富本豊前太夫を襲名する。
●初代 富本豊前掾
(享保1年(1716年) - 明治25年(1764年)10月22日)本名は福田弾司。
宮古路豊後掾の門弟。初名を宮古路品太夫後に宮古路小文字太夫と改名。1747年に宮古路文字太夫(後の初代常磐津文字太夫)が常磐津節を創設したに初代常磐津小文字太夫と改名して脇を勤める。1748年に独立して富本豊志太夫と名乗り富本節を興した。1749年に受領して「富本豊前掾藤原敬親」となる。1752年春に中村座に出勤、江戸三座に出演にも出勤。その後1760年に再び受領して筑前掾となった。
●2代目
(宝暦4年(1754年) - 文政5年(1822年)7月17日)
江戸の出身。初代(富本豊前掾)の実子。初名を富本午之助という。幼くして父が死別し1766年7月中村座で「文月笹一夜 下の巻」に出勤。1770年に父の名2代目豊志太夫。1777年1月に2代目豊前太夫を襲名。1817年10月受領して「富本豊前掾藤原敬政」となる。
面長な顔から「馬づら豊前」と言われ、美声で人気を誇った。
「二代目襲名披露に松江藩松平治郷<不昧公>より『七重八重野辺の錦や桜草』という歌と七本桜の紋所を祝ってもらい、以後富本の定紋となったというが、どうも1月という季節に桜草というのは解せない?」
●3代目
(文化2年(1805年) - 明治5年(1876年)5月2日)幼名を善太郎。
江戸日本橋人形町鬘屋善八の息子。1819年に2代目豊前太夫の養子となり、1822年に2代目午之助の名で初舞台。1828年に3代目豊前太夫を襲名。1851年に受領して「富本豊前掾藤原秀広」さらに1852年に豊前大掾となった。1859年に隠居して豊珠翁を名乗った。
●4代目
(天保1年(1830年)6月16日 - 明治22年(1889年)9月7日)本名は富本保太郎。
3代目豊前太夫の実子。1845年に富本豊紫太夫と名乗り中村座で初舞台。1852年1月に4代目豊前太夫を襲名。1870年に豊洲、1875年に実子に豊前太夫の名を譲り引退するも実子5代目豊前太夫が夭折した為、1880年に復帰し6代目豊前掾を受領した。凋落する中で唯一積極に活動し復興に力を注いだ。
●5代目
(文久1年(1861年) - 明治22年(1880年)8月23日)本名は富本玉次郎。
4代目豊前太夫の実子。1875年に父に名を譲られ5代目豊前太夫を襲名。襲名後に喜昇座、新富座に出演し「三社祭礼巴提灯」で評判を呼ぶ。久松座(後の明治座)にも出演。嘱望されたが夭折し以降、富本節はさらに凋落する一途を辿る。
●6代目
6代目は4代目と同じ。
●7代目
(明治23年(1890年) - 没年不詳)本名は榎本清久。
骨董商を営む父が6代目豊前太夫と縁故関係あった為に1898年に家元を相続し富本豊志太夫を名乗る。1909年6月に7代目豊前太夫を襲名。目立った活躍なく没年も不詳のため代外される場合もある。
●8代目
(安政4年(1857年) - 昭和3年(1933年)8月3日)
4代目豊前太夫(後の6代目豊前掾)の門弟で豊鶴を経て新派を立てて初代富本都路となり、1887年に初代富本豊前を名乗る。富本豊前を8代目として勘定する。
●9代目
(明治19年(1886年) - 昭和27年(1952年)11月30日)
8代目の養女で豊鶴が2代目都路から2代目富本豊前を襲名。
2代目富本豊前を9代目として勘定する。
●10代目
(明治29年(1896年) - 昭和45年(1970年)9月6日)
9代目の夫。3代目都路から3代目富本豊前を襲名。
3代目富本豊前を9代目として勘定する。
●11代目
石川潭月の名で作詞家、舞踊家で終生活躍。
●12代目
現在の家元。
<以上、2011年7月現在>
富本節(とみもとぶし)はいわゆる江戸浄瑠璃の一派で、常磐津節より分かれて始まり、後にここから清元節が生まれた。安永、天明期を全盛として以後は衰退の一途をたどり、今日ではその演奏に接する機会はほとんどない。曲調が常磐津のそれより派手であり、天明期らしく濃艶で、江戸歌舞伎の出語(でがた)りとして一世を風靡し、品格の高いものとして家庭の子女の間でも流行した。しかし声の使い方に千変万化の妙を尽くし、一層細かい微妙な節廻しの清元の出現の前に、影を薄くしてしまった。「其俤浅間嶽(そのおもかげあさまがだけ)」や「鞍馬獅子(くらまじし)」など幽艶な曲にそのおもしろさを発揮した。
これを開いたのは初代常磐津文字太夫の門人小文字太夫で富本豊前掾(ぶぜんのじょう)を名のった。全盛期をつくり出したのは二代目豊前掾で四代目まで続いたが、明治二二年一時家元が絶えてしまった。その後復活されたものの僅かに命脈を保つのみで、伝承者富本都路(とみもとみやこじ)も遂に没した。
【Wikipedia】より
富本節(とみもとぶし)または富本(とみもと)とは、三味線音楽のひとつで、浄瑠璃の一種。
【概要】
初代富本豊前掾が1748年に創始したものである。豊前掾は宮古路豊後掾の門弟で常磐津節から独立した形で富本豊志太夫を名乗り富本節を興した。その後豊前掾の実子2代目富本豊前太夫が活躍し全盛をしたが、その後富本節からは清元節が興され人気を得ると次第に衰退。
【家元】
宗家家元は富本豊前太夫を襲名する。
●初代 富本豊前掾
(享保1年(1716年) - 明治25年(1764年)10月22日)本名は福田弾司。
宮古路豊後掾の門弟。初名を宮古路品太夫後に宮古路小文字太夫と改名。1747年に宮古路文字太夫(後の初代常磐津文字太夫)が常磐津節を創設したに初代常磐津小文字太夫と改名して脇を勤める。1748年に独立して富本豊志太夫と名乗り富本節を興した。1749年に受領して「富本豊前掾藤原敬親」となる。1752年春に中村座に出勤、江戸三座に出演にも出勤。その後1760年に再び受領して筑前掾となった。
●2代目
(宝暦4年(1754年) - 文政5年(1822年)7月17日)
江戸の出身。初代(富本豊前掾)の実子。初名を富本午之助という。幼くして父が死別し1766年7月中村座で「文月笹一夜 下の巻」に出勤。1770年に父の名2代目豊志太夫。1777年1月に2代目豊前太夫を襲名。1817年10月受領して「富本豊前掾藤原敬政」となる。
面長な顔から「馬づら豊前」と言われ、美声で人気を誇った。
「二代目襲名披露に松江藩松平治郷<不昧公>より『七重八重野辺の錦や桜草』という歌と七本桜の紋所を祝ってもらい、以後富本の定紋となったというが、どうも1月という季節に桜草というのは解せない?」
●3代目
(文化2年(1805年) - 明治5年(1876年)5月2日)幼名を善太郎。
江戸日本橋人形町鬘屋善八の息子。1819年に2代目豊前太夫の養子となり、1822年に2代目午之助の名で初舞台。1828年に3代目豊前太夫を襲名。1851年に受領して「富本豊前掾藤原秀広」さらに1852年に豊前大掾となった。1859年に隠居して豊珠翁を名乗った。
●4代目
(天保1年(1830年)6月16日 - 明治22年(1889年)9月7日)本名は富本保太郎。
3代目豊前太夫の実子。1845年に富本豊紫太夫と名乗り中村座で初舞台。1852年1月に4代目豊前太夫を襲名。1870年に豊洲、1875年に実子に豊前太夫の名を譲り引退するも実子5代目豊前太夫が夭折した為、1880年に復帰し6代目豊前掾を受領した。凋落する中で唯一積極に活動し復興に力を注いだ。
●5代目
(文久1年(1861年) - 明治22年(1880年)8月23日)本名は富本玉次郎。
4代目豊前太夫の実子。1875年に父に名を譲られ5代目豊前太夫を襲名。襲名後に喜昇座、新富座に出演し「三社祭礼巴提灯」で評判を呼ぶ。久松座(後の明治座)にも出演。嘱望されたが夭折し以降、富本節はさらに凋落する一途を辿る。
●6代目
6代目は4代目と同じ。
●7代目
(明治23年(1890年) - 没年不詳)本名は榎本清久。
骨董商を営む父が6代目豊前太夫と縁故関係あった為に1898年に家元を相続し富本豊志太夫を名乗る。1909年6月に7代目豊前太夫を襲名。目立った活躍なく没年も不詳のため代外される場合もある。
●8代目
(安政4年(1857年) - 昭和3年(1933年)8月3日)
4代目豊前太夫(後の6代目豊前掾)の門弟で豊鶴を経て新派を立てて初代富本都路となり、1887年に初代富本豊前を名乗る。富本豊前を8代目として勘定する。
●9代目
(明治19年(1886年) - 昭和27年(1952年)11月30日)
8代目の養女で豊鶴が2代目都路から2代目富本豊前を襲名。
2代目富本豊前を9代目として勘定する。
●10代目
(明治29年(1896年) - 昭和45年(1970年)9月6日)
9代目の夫。3代目都路から3代目富本豊前を襲名。
3代目富本豊前を9代目として勘定する。
●11代目
石川潭月の名で作詞家、舞踊家で終生活躍。
●12代目
現在の家元。
<以上、2011年7月現在>
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