園芸花卉ブログ - KKousakaさんのエントリ

本サイトの「茶花としての桜草」での研究レポートもアップする内容が限定され、研究した全軌跡をご紹介するまでには至らず、投稿する難しさも解ってきました。 調査や研究に伴う周辺文献のことや実際の茶会検証なども書き切れないことが多いのが現状です。そのこともあって、有志の方々と研究報告会を兼ねた会合を開くために連絡用に「芋頭会」というコミュニティを本サイトのさくらそうコミュニティの中に立ち上げました。 実際にお会いしたり、一緒に文献調査をご一緒できる方々との連絡を密にできればと考えています。
更新が滞っていた「茶花としてのさくらそう」を更新しました。 まだ、核心部分には至っていませんが、天王寺屋会記の桜草が登場する 当日の記述だけでなく、その前後や招かれた客やその人間関係にまで目を向けるという段階まで、話を進めてみました。 この時期の政治情勢や秀吉やそれを取り巻く武将の動向なども 説明していきたいと思います。文化は、その時代時代の情勢を映す鏡なの だということを少しでも伝えられたらと思います。
まだ、桜草園芸が始まる前? この日記が始まるのが、安永二年(1773年)。桜草の文献でいえば、伊藤伊兵衛の「花壇地錦抄」(1695年)後で、いくつかの本草図で桜草が知られてから、富本節の桜草家紋人気や江戸名所花暦(1827年)に尾久の桜草見物が登場する前までの期間になる。 当然、番付がでるほどの園芸趣味となる前の自然の中に見られる桜草が流行となっていく途上という期間にあたる。 六義園でも「菊」や「梅」の鉢物を貰う話はあっても、安永二年の当初は、桜草の記述がでてこない。所が、日記も最後の安永十年(天明元年、1781年)から翌年の天明二年の春になると「桜草鉢」を貰う記事や尾久で桜草を見物する記事まで登場するようになる。 尾久での桜草見物の話は、「さくらそう文化研究所」の「大名屋敷と園芸」のコーナーで詳細を紹介してみたい。是非、この当時の隠居した大名の桜草見物の実態をご覧ください。
隠居して六義園に住んだ、柳沢吉保の孫の日記「宴遊日記」を図書館で借りて、読み始めました。
主に当時の食事情や歌舞伎などの情報を研究する方々に研究された本書ですが、私にとっては、当時の大名屋敷の園芸事情を知るための貴重な資料というところです。
安永二年の5月(1773年6月)から六義園に引っ越して、隠居生活を送った六義園での園芸実態を知ることができます。この日記のなかで桜草に関する記事を見つけることやその当時の大名屋敷での園芸生活を知りたいと読み始めたのですが、その膨大な量に圧倒されています。

柳沢信鴻(やなぎさわ のぶとき)
、江戸時代中期の大名。大和国郡山藩第2代藩主。郡山藩柳沢家3代。初代藩主・柳沢吉里の四男。
●プロフィール:
生誕:享保9年10月29日(1724年12月14日)
死没:寛政4年3月3日(1792年4月23日)
別名:久菊、義稠、信卿、伊信
諡号:米翁、春来、香山、月村、蘇明山、紫子庵、伯鸞
戒名:即仏心院無誉祐阿香山大居士
藩:大和郡山藩主
父母兄弟:
父/柳沢吉里、母/森氏
兄弟/柳沢信睦、柳沢時英、柳沢信鴻、柳沢信昌、伊奈忠敬、坪内定規
妻 正室:伊達村年の娘
継室:真田幸弘の娘
子:柳沢保光(長男)、柳沢信復(次男)、武田信明(三男)、六角広寿(四男)、柳沢里之(五男)、娘(米倉昌賢正室)、娘(阿部正倫正室)