【宿場町、絹織物産業を背景に江戸時代から、隆盛を誇った八王子での植木需要とは】

近世、八王子は、織物生産で発展しました。八王子織物の歴史の詳細は、提携サイトの「公界」の風土知研究にある八王子の産業カテゴリーでの織物の歴史概要がこちらからご覧いただけます。この概要を知った上で以下の植木業との関連をご覧ください。

前出の「多摩のあゆみ「多摩の植木生産の歴史」の参考文献でもあった八王子造園組合の周年記念誌「桑の都から新世紀へ」を参照します。

同書の「先輩・後輩対談」で先輩の秋間實さん(植金三代目)の初代の当時(明治、大正)の植木仕事についての部分で明治の八王子の植木業について、以下のように話されています。

<転載、部分>(太字は、当サイトで強調)

植金の屋号を使いだしたのは、二代目、親父の時代からだね。だから昔の半天には、家紋のキキョウを背中にしょって、衿には秋間って入っていましたね。その当時は、造園なんて言わないで、植木屋、植木組合っていってたんだから。それが、八王子造園組合に改組されたわけだ。

植木職組合の木札があったんだ。昔は、御十夜にある太子堂っていうのが、職人の神様だから、そこで会合をやっていた。

お得意さんは、初代なんかは、やっぱり織屋(はたや)さんですよね。その当時、大正なんて職屋さんはすごい時代で、みんなそれぞれに庭をもっていたわけだ。

料理屋さんや遊郭もあったけど、80%は職屋だろうね。
職屋さんはその庭を見ながら、お客さんをもてなすので、何年かすると模様替えをしたわけよな。庭が年中同じってわけじゃなくて、木を移動したり、そういうことを結構したわけだ。本商談をまとめるのに中町いって芸者あげて。

(後略)


<転載、以上>

その上で、実際の仕事先として、以下の庭を上げておられます。

関谷源兵衛氏庭園
安土のつつじ園(明治末頃)
小川時次郎(時太郎?)氏庭園
萩原彦七氏庭園(明治20〜30年頃)
久保田邸
料理屋 若松 満杯亭


実際にそれぞれの庭園のその後を現地で調べてみようと思います。その過程でどのような造作で樹種などもわかればと思います。

●1)関谷源兵衛とは

関谷氏は八王子市長ともなっ人物のようです。以下にWikipediaよりの情報を転載します。

<転載、部分>

関谷 源兵衛(せきや げんべい、1905年(明治38年)1月22日 - 1945年(昭和20年)8月2日)は第7 - 9代八王子市長。

【略歴】

1905年(明治38年)1月22日 - 八王子町八幡で質屋を営む長男として生まれる。18歳の時に父が死去。家業を営みながら八王子市街自動車株式会社専務、八王子馬匹畜産組合長を務める。1937年(昭和12年)八王子市議会議員選挙で当選、翌年1月15日確実とされていた政友会系が推す候補ではなく民政党系が推す関谷が市長に選出されるという意外な結果となる。主な実績として小宮町の合併など。1942年(昭和17年)9月1日退任。1945年(昭和20年)8月2日八王子空襲で落とされた焼夷弾が直撃し死去。

親族

父・伊重郎
源兵衛が18歳の時に死去。
祖父・源兵衛
第4代八王子町長、同町会議員、第2代八王子商業会議所会頭などを務めた。八王子市犬目町にある甲明神社を建立している。

参考文献

八王子市政八十年史 −歴代市長の足跡 波多野重雄編著 ふこく出版 1996年11月発行

<転載、以上>

源兵衛氏は、昭和12年に9代目市長となられた方で、明治38年生まれで、18才の時に父親が死去し、後を継いだようなのでこの庭園は氏が略歴にもあるように八王子市街自動車株式会社専務、八王子馬匹畜産組合長の時期に先代から、引き継いで利用した私庭園で、織物関係の庭園とは異なるもののようです。



●2)萩原彦七とは

萩原彦七氏は、八王子の製糸家でした。 

1850年(嘉永3)神奈川県津久井郡に生まれ、現八王子市小門町の萩原家の婿養子となったようです。
彦七は、1877年(明治10)小宮村西中野(現中野上町)に八王子初の器械製糸工場を創業、創業当時は32人程度で始めた工場でしたが、年々拡大し、1893年(明治26)には250人繰りをかかえる規模に成長し、八王子の近代工業の先駆となりました。

1880年(明治13)6月には明治天皇巡幸の際賞状をうけ、山田参議が工場を視察するまでになったようです。元本郷町と中野上町を結ぶ萩原橋は1901年(明治34)木造で架設されました。経費は主として萩原彦七と地元民250名の寄付によりまかなわれたようです。
萩原橋はその後、1923年(大正12)には木製、1931年(昭和6)及び1990年(平成2)にはコンクリート製で改架され、現在に至っていおり、橋の畔には、1907年建立の架橋記念碑にその詳細が記載されています。

1893年(明治26)400人規模の養蚕伝習所を開設するなどしましたが、その後経営が悪化し1901年(明治34)長野の片倉組に経営を譲渡し、24年廃業となったようです。彦七の没年は不明ですが、墓所は八王子の金剛院にあります。

庭園は、工場跡地の小宮村西中野(現中野上町)か、自宅にあったと思われますが、その詳細は不明で、調査中です。


明治期の多摩での養蚕は、明治20年以降、盛んとなり、その先鞭をつけたのが、羽村の下田伊左衛門です。明治23年(1890年)、羽村に成進社蚕業伝習所を設立、養蚕指導者の育成に尽力。伝習所は同34年に講習所と改称、教授内容を高めている。講習生は最盛時に8千余人といわれ実業教育の先べんをつけたようです。逆に彦七は、逆に3年遅れて、八王子伝習所を開設した後、明治34年には、経営を悪化させ、廃業しています。庭は、明治20〜30年頃といいますから、その全盛期ということになるでしょう。

●3)小川時太郎とは

小川時太郎は、織物製造家、職人でもあり、織物組合の第4代組長ともなった人物です。

1890年(明治23年)第3回内国勧業博覧会でその開発した「絞糸織」が一等有功賞となりました。通称は、「一楽織」といい、当時、東京の新風俗となりました。また、八王子では、1905年(明治38年)11月から20(大正9年)年12月まで第四代八王子織物同業組合組長を務める。12月に辞任して、山崎豊次郎氏が第五代組長に就任しています。

できれば、時太郎氏の私邸、庭園がどこにあったのかを調べていきたいと思います。



<この項、続く>
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