「園芸」とは
【語源】
「園芸」という用語は英語の「horticulture」の訳語に由来し、「horticulture」はラテン語の「hortus(囲い)」と「cultura(栽培管理)」からなっています。
漢字の「園藝(芸)」の語源は「庭に手を加える」の意味で,ここでいう「庭」とは「庭園」や「果樹園・菜園」なども含む「植物の生育している囲われた区域」に手を加えることの意味でした。古くは中国明代の文献にあらわれる言葉です。
●「庭」の語源を知る、
庭=神事・狩猟・農事などを行う場所や、波の平らな海面などもさし、古くは何かを行うための平らな所をさしていた。「学びの庭」といった用法は、このような意味を持っていたことに由来します。
文化的な視点からの定義:
園芸とは、文化的視点から見ると、「植物を絶対的な素材とした美的文化、芸術である」といえますが、実際には、場所や歴史的に見ると多様な見方や定義が見つかります。
<以下にWikipedia、2010年10月3日転載より、文化的視点からの解説をご紹介します>
1.文化的に見ると、園芸には農業の範疇に入らない要素も少なくない(例えばあくまでも「美」が追求されてきた鑑賞園芸、つまり古典園芸植物、盆栽、フローリスツ・フラワー(注1参照)、その他マニア的、趣味的な園芸)。そこで特にこのような鑑賞園芸(これが日本でいう本来的な「園芸」である)のみを「園芸」と呼んで農業、造園から独立した美的文化、あるいは芸術のひとつとし、果樹園芸、蔬菜園芸などの「生産園芸」はあくまでも農業の範疇を出ずそこに帰するものとして区別すべきと考える人も多い。つまりここでいう園芸とは「食用、実用以外の鑑賞を目的として植物を栽培する文化」ということになる。
2.このような園芸を、農業の一分野として園芸をとらえる考えからは「家庭園芸」「趣味園芸」などとして括られることが多い。確かにそういった側面も強くあるが、それだけでは説明のつかない部分も少なくない。音楽等の芸術も、趣味や家庭との連続的なつながりを持っている。
3.そもそも欧米において園芸と造園術は未分化の部分があり、日本の「園芸」を考えた場合、英語の "gardening" にそのまま当てはまらない部分も多い。例えば造園において植物は重要ではあっても必ずしも絶対的な構成要素ではなく、禅寺の石庭のように植物をまったく使用しない庭園もあり得る。しかし植物を使用しない園芸はあり得ない。
4.歴史的に見ると、古代においては園芸は農業となんら変わるものではなかった。つまりもともと食糧や実用として栽培されていた植物を、次第に視覚や嗅覚の充足のため、つまり実用と食欲以外の人間の精神的欲求を満たすために栽培するようになったことが園芸の始まり、だったといえるだろう。やがて都市が発達するとともに、建築と合わせて庭園が生まれ、園芸はそこに取り込まれ、長い間庭園術の支配下に置かれた。しかし、「育種」によって園芸植物に品種が多くなり、庭園よりもより個々の植物に視点が集中したり、植木鉢の登場によって園芸植物を庭園から切り離すことが可能になると、園芸は次第に農業の範疇や庭園術の束縛から離れて、一つの文化として成り立つようになる。日本においてはそれが特に顕著に見られ、江戸時代になると園藝が非常に発達するが、当時は「樹藝」あるいは「農藝」という語が普通であり、すでに農業の一分野というよりも芸道、または娯楽のひとつとしてとらえられていた。日本最古の園芸書である「花壇綱目」(水野勝元著・1681年 {天和元年} 刊)にも、園芸を武道や詩歌、音楽などの諸芸道と同等の存在として列する著述がみられる。その後キク、ツツジ、サクラソウ、アサガオ、ハナショウブ、ツバキ、マツバラン、オモト、長生蘭、富貴蘭などの育種や盆栽の技術が進み、これらを美術品のように扱うのが当たり前になり、更なる美が追求されると共に園芸はますます芸道化され、新品種が高額で取引されたり、同好者たちの間で家元制的な組織も生まれた。このような例は日本のみならず英国のフローリスツ・フラワー(注1)にも見られる。また、中国では宋の頃からシュンランの栽培にあたって文人思想が反映されるなど、園芸においては植物の栽培、育種に人間の精神性が要求されたり、時代ごとの思潮や美意識が反映されて来た。
5.明治以降、欧米から近代農業の一分野としての「生産園芸」が流入すると共に、Horticulture、Gardeningの訳語として「園藝」が定着したものの、その範疇が日本の実情に必ずしも整合、合致せず、以後定義に混乱が生じている。特に園芸が農業の一分野という考えには反論、異論も多い。例えば、明治から大正にかけて活躍した園芸家、辻村常助(注2)は「園藝の意義と其範圍」で、「園芸=芸術」論を展開している。
<解説、以上、現在Wikipediaでは、「文化としての園芸」「産業としての園芸」という大きなくくりでまとめられています。詳細は、Wikipediaのこちらを>ご覧ください。
大体の概要はつかめたでしょうか?実際、現実に園芸文化は、今、文化のひとつとして把握されているといえるのでしょうか?このサイトの疑問はそんなところにもありました。園芸を文化としてどのように捉えるかが、その発展の鍵だと考えています。
(注1)
フローリスツ・フラワー(Florists' Flower)は、ベルギー及びイギリスで17世紀から19世紀末にかけてフローリスト(園芸愛好家)によって栽培、育種された園芸植物の総称。
(注2)
辻村常助(つじむら じょうすけ/1881〜1959)
小田原の資産家。辻村家の六代目で洋花を中心とした花卉栽培の先駆者として知られる。
洋花の新たな楽しみ方としての花卉装飾(フラワーデコレーション)を欧米の書籍を紹介することで日本に紹介。
また、実際の花卉栽培としては、明治33年(1900)に大規模な農園を小田原に作り、フレーム式の栽培施設で、パンキー、デージー、ゼラニュ−ムなどの栽培を始めたようです。
明治40年(1907年)には、弟の辻村伊助とともに辻村農園を設立。
辻村農園は、主に西洋草花(洋花)を栽培していました。種子や球根の通信販売も手がけるなど、当時としては先進的な花卉栽培経営を実践していました。
小田原本部をはじめ東京にも広大な農園や栽培場を持ち、更に小売店舗を小田原市内、本郷、神楽坂、日本橋、銀座に開き、当時は小田原で作った鉢物の花を、毎日荷車で東京に出荷していたそうです。
この辻村農園に研究生には、日本の近代園芸の基礎を築いた石井勇義と洋蘭のパイオニアとして知られる大場守一がいます。
同氏が西欧の花卉装飾を紹介した書籍は、
『British floral decoration』(R.Forester Felton/1910年刊/A.&C.Black)
『Flower decoration in the house』(Gertrude Jekyll/1907年刊/Country Life)
『L'Art fleur des tables』(Albert maumeno)
などがあります。
また、花卉専門誌の『家庭之園芸』(家庭之園芸社)も1913年(T2年)に発刊するなど、その園芸界への功績は大きなものでした。
【語源】
「園芸」という用語は英語の「horticulture」の訳語に由来し、「horticulture」はラテン語の「hortus(囲い)」と「cultura(栽培管理)」からなっています。
漢字の「園藝(芸)」の語源は「庭に手を加える」の意味で,ここでいう「庭」とは「庭園」や「果樹園・菜園」なども含む「植物の生育している囲われた区域」に手を加えることの意味でした。古くは中国明代の文献にあらわれる言葉です。
●「庭」の語源を知る、
庭=神事・狩猟・農事などを行う場所や、波の平らな海面などもさし、古くは何かを行うための平らな所をさしていた。「学びの庭」といった用法は、このような意味を持っていたことに由来します。
文化的な視点からの定義:
園芸とは、文化的視点から見ると、「植物を絶対的な素材とした美的文化、芸術である」といえますが、実際には、場所や歴史的に見ると多様な見方や定義が見つかります。
<以下にWikipedia、2010年10月3日転載より、文化的視点からの解説をご紹介します>
1.文化的に見ると、園芸には農業の範疇に入らない要素も少なくない(例えばあくまでも「美」が追求されてきた鑑賞園芸、つまり古典園芸植物、盆栽、フローリスツ・フラワー(注1参照)、その他マニア的、趣味的な園芸)。そこで特にこのような鑑賞園芸(これが日本でいう本来的な「園芸」である)のみを「園芸」と呼んで農業、造園から独立した美的文化、あるいは芸術のひとつとし、果樹園芸、蔬菜園芸などの「生産園芸」はあくまでも農業の範疇を出ずそこに帰するものとして区別すべきと考える人も多い。つまりここでいう園芸とは「食用、実用以外の鑑賞を目的として植物を栽培する文化」ということになる。
2.このような園芸を、農業の一分野として園芸をとらえる考えからは「家庭園芸」「趣味園芸」などとして括られることが多い。確かにそういった側面も強くあるが、それだけでは説明のつかない部分も少なくない。音楽等の芸術も、趣味や家庭との連続的なつながりを持っている。
3.そもそも欧米において園芸と造園術は未分化の部分があり、日本の「園芸」を考えた場合、英語の "gardening" にそのまま当てはまらない部分も多い。例えば造園において植物は重要ではあっても必ずしも絶対的な構成要素ではなく、禅寺の石庭のように植物をまったく使用しない庭園もあり得る。しかし植物を使用しない園芸はあり得ない。
4.歴史的に見ると、古代においては園芸は農業となんら変わるものではなかった。つまりもともと食糧や実用として栽培されていた植物を、次第に視覚や嗅覚の充足のため、つまり実用と食欲以外の人間の精神的欲求を満たすために栽培するようになったことが園芸の始まり、だったといえるだろう。やがて都市が発達するとともに、建築と合わせて庭園が生まれ、園芸はそこに取り込まれ、長い間庭園術の支配下に置かれた。しかし、「育種」によって園芸植物に品種が多くなり、庭園よりもより個々の植物に視点が集中したり、植木鉢の登場によって園芸植物を庭園から切り離すことが可能になると、園芸は次第に農業の範疇や庭園術の束縛から離れて、一つの文化として成り立つようになる。日本においてはそれが特に顕著に見られ、江戸時代になると園藝が非常に発達するが、当時は「樹藝」あるいは「農藝」という語が普通であり、すでに農業の一分野というよりも芸道、または娯楽のひとつとしてとらえられていた。日本最古の園芸書である「花壇綱目」(水野勝元著・1681年 {天和元年} 刊)にも、園芸を武道や詩歌、音楽などの諸芸道と同等の存在として列する著述がみられる。その後キク、ツツジ、サクラソウ、アサガオ、ハナショウブ、ツバキ、マツバラン、オモト、長生蘭、富貴蘭などの育種や盆栽の技術が進み、これらを美術品のように扱うのが当たり前になり、更なる美が追求されると共に園芸はますます芸道化され、新品種が高額で取引されたり、同好者たちの間で家元制的な組織も生まれた。このような例は日本のみならず英国のフローリスツ・フラワー(注1)にも見られる。また、中国では宋の頃からシュンランの栽培にあたって文人思想が反映されるなど、園芸においては植物の栽培、育種に人間の精神性が要求されたり、時代ごとの思潮や美意識が反映されて来た。
5.明治以降、欧米から近代農業の一分野としての「生産園芸」が流入すると共に、Horticulture、Gardeningの訳語として「園藝」が定着したものの、その範疇が日本の実情に必ずしも整合、合致せず、以後定義に混乱が生じている。特に園芸が農業の一分野という考えには反論、異論も多い。例えば、明治から大正にかけて活躍した園芸家、辻村常助(注2)は「園藝の意義と其範圍」で、「園芸=芸術」論を展開している。
<解説、以上、現在Wikipediaでは、「文化としての園芸」「産業としての園芸」という大きなくくりでまとめられています。詳細は、Wikipediaのこちらを>ご覧ください。
大体の概要はつかめたでしょうか?実際、現実に園芸文化は、今、文化のひとつとして把握されているといえるのでしょうか?このサイトの疑問はそんなところにもありました。園芸を文化としてどのように捉えるかが、その発展の鍵だと考えています。
(注1)
フローリスツ・フラワー(Florists' Flower)は、ベルギー及びイギリスで17世紀から19世紀末にかけてフローリスト(園芸愛好家)によって栽培、育種された園芸植物の総称。
(注2)
辻村常助(つじむら じょうすけ/1881〜1959)
小田原の資産家。辻村家の六代目で洋花を中心とした花卉栽培の先駆者として知られる。
洋花の新たな楽しみ方としての花卉装飾(フラワーデコレーション)を欧米の書籍を紹介することで日本に紹介。
また、実際の花卉栽培としては、明治33年(1900)に大規模な農園を小田原に作り、フレーム式の栽培施設で、パンキー、デージー、ゼラニュ−ムなどの栽培を始めたようです。
明治40年(1907年)には、弟の辻村伊助とともに辻村農園を設立。
辻村農園は、主に西洋草花(洋花)を栽培していました。種子や球根の通信販売も手がけるなど、当時としては先進的な花卉栽培経営を実践していました。
小田原本部をはじめ東京にも広大な農園や栽培場を持ち、更に小売店舗を小田原市内、本郷、神楽坂、日本橋、銀座に開き、当時は小田原で作った鉢物の花を、毎日荷車で東京に出荷していたそうです。
この辻村農園に研究生には、日本の近代園芸の基礎を築いた石井勇義と洋蘭のパイオニアとして知られる大場守一がいます。
同氏が西欧の花卉装飾を紹介した書籍は、
『British floral decoration』(R.Forester Felton/1910年刊/A.&C.Black)
『Flower decoration in the house』(Gertrude Jekyll/1907年刊/Country Life)
『L'Art fleur des tables』(Albert maumeno)
などがあります。
また、花卉専門誌の『家庭之園芸』(家庭之園芸社)も1913年(T2年)に発刊するなど、その園芸界への功績は大きなものでした。
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