トップ  >  花暮らし、花飾り、花遊び  >  茶事の花  >  茶事の花の今を知る  >  現代茶花研究  >  茶花解説書を読む 茶花とは>その1:「茶花のいれ方」(裏千家・山藤宗山)
このシリーズでは、現代の茶花の解説書を読んで、今の茶花について、様々な考え方や扱い方があることを学んでいきます。

第1回は、裏千家の「山藤宗山」氏の著作で世界文化社のビジュアル版茶人の友というシリーズの7「茶花の入れ方(山藤宗山作品集)」を参考しての現代茶花研究です。

第一回とりあげた資料は、個人の茶人による作品集なので実際に茶花を入れた写真がメインですが、その他に山藤氏の茶花についての考え方や、園芸家・鳥居恒夫氏による茶花の栽培の仕方などの資料も掲載されており、それらをご紹介していきます。

【山藤宗山氏略歴】
<同書より、転載>

明治43年(42?)〜平成3年
神戸市生まれ。昭和2年、裏千家元業躰見習いとして入庵。昭和47年、兵庫県文化賞受賞。日本国内をはじめ、北米、西欧各国への茶道の普及を兼ねて、茶花の紹介に努めた。

<転載、以上>

<デジタル版 日本人名大辞典より、転載>

1909−1991 昭和時代の茶道家。
明治42年11月10日生まれ。裏千家家元教授。大正10年裏千家今日庵に入門。昭和43年から海外各地で巡回指導。裏千家学園茶道専門学校教授,兵庫県茶道協会相談役などをつとめた。平成3年11月2日死去。81歳。兵庫県出身。神戸商業卒。本名は愛男(よしお)。号は清澄庵。著作に「風炉灰の話」「佗びの茶花」など。

<転載、以上>

山藤氏の茶花に関しての考え方を以下に前出の著書より転載して、以下にご紹介します。

茶花への向き合い方を山藤氏は、「茶花と私」の中で茶花を手掛けるようになったきっかけも含めて、以下のように述べられています。

<転載、部分>

茶花は、人の前でいれるものではありません。陰のものです。それなのに、心を込めてもてなさなければならない茶の作法のひとつです。ところが、人前でいれるものではないせいでしょうか、その昔は手掛ける人がいませんでした
私はそれが惜しいと思ったのです。そこで先代淡々斎の許しを得、全国各地を講演して茶花の普及に努めてきました。

<転載、以上>

お茶の作法や流儀等と違い、嘗ては茶花をとりたててその仕方を問う方々が少なかったことがわかります。また、山藤氏自身、裏千家の方でもあるので茶席で入れる花があることも解った上で「人前で入れるものではない」と明確に述べられています。
さらに、その花についての考え方を以下のように続けられています。

<転載、部分>

茶の花は自然をそのままにいれる花です。いけ花が、自然の花に手を加え、さらに美しくいけて飾るのとは、まったく違います。花によって自分を清め、見る人心をも清める茶花は、季節を表現する暦であるといってもよいでしょう。
そのような茶花は、茶室の中だけではなく、茶の間にも見たいものです。

<転載部分、以上>

いけばなとの違いは、その自然さにあると明確に定義されています。さらに「茶花とは」を、「四清同の心でいれる野にある花」として、以下のように述べられてもいます。

<転載部分>

茶席に用いて茶趣に合った花、席中にいれた花こそ茶花であって、それ以外は茶花ではない、野にある花はただの花である、とする説があります。
そうでしょうか。私は、たとえ席中にいれていない野にある花であっても、茶席にふさわしい花はすべて茶花であると思っています。(中略)
これらの花をテクニックではなく自然の姿を生かして、寂しいからあそこを、ここをと足して説明し尽くすのではなく謎として残していれることに余情残心の情趣があるといえましょう。
「青竹の清きを切り、清き水を張り、清き心をもって、清き花をいける。」この「四清同(しせいどう)」の心を私は大切にしています。
茶花に家元はいません。(本書に)掲載された私の作品も、あくまで茶花の基本として参考にしていただき、あとは各自で花を自由にいれ、楽しく茶花に親しんでいただければと願っています。

<転載、以上>

こうして、伺うと茶の心に寄り添えば、フラワー・アレンジも茶花と言えそうです。茶花の心をより多くの人々に味わってもらいたい、親しんでもらいたいという山藤氏の願いがここまで茶花の概念を広げたのではないかと思います。
ただ、もちろん。茶と茶花が関係が無いはずもなく、同氏は、「入れ方の心得」として、以下のように述べられています。

<転載部分>

茶花は感覚でいれるものであって、いけ花のように花型があるわけではない。ぱっと見てぱっと心が打たれる、それがよい茶花である。
花の入れ方など少しも知らないずぶの素人が、まかり間違ってもいれてもうまくいくことさえ、茶花にはあるのである。
それは無造作のなかに見どころがあるからといえようか。したがって、わざと形作ろうとすると、その心がかえって邪魔になる。いれる人の心がそのまま見る人の心に映る茶花は、ある意味で怖いものといってもよいであろう。
しかし、感覚でいれ、無造作をよしとしても、心でいれるものであるからには、茶の心を知らずにうまくいれることはできない。
茶陶を、茶を知らずに腕だけで作ることができないように、茶花も茶を知らずにいれることはできないのである。
まず、花を入れる人自身が、素直な茶に徹すること、あるがままの姿を壊さずにいれることである。上手にいれよう、美しくいれようとテクニックに走るのではなく、自然の姿を生かし、余情残心をもたせたい。

<転載、以上>

そし、具体的に花の開き具合や向き、色などもその基本となる入れ方をその後に続けて説明されています。お茶を深くたしなんだ方が自然や花に真剣に向き合うことで生まれた感覚とでもいえる境地なのでしょうか。お茶の文化の中で花と向き合い、その楽しみを季節や風土、自然に求めて達する境地という気がします。

もちろん、他の茶花の権威の方は違った考え方であるかもしれませんが、一つの見かたであることは事実でしょう。

<この章、了>
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