【秋葉区のボケ栽培について】
●現在のボケ栽培●
新潟市の公式サイトにある秋葉区の花卉農業についてのコーナー(公式サイトはこちら)からボケ栽培についての情報を以下に転載します。
<転載、部分>
ボケは、江戸時代の後半から花を観賞するようになり、大正時代の初期には急激に人気が高まり、越後小合園芸同好会から「放春花名鑑」が大正2年に発行され、27品種が載せられています。
盆栽や花木生産地として知られる小合・小須戸地区と埼玉県の川口市とは、互いに交流があり、両地方でボケの育種(品種改良)が盛んになり大正年間にブームがおきました。その後一時期流行も去り、昭和30年代には生産地においても十種を探すのに苦労するといった時代がありました。昭和40年代にボケの良さが見直され、昭和50年代には各地で少しづつ品種の改良と保存が始まり、新たなボケのブームが始まりました。
小須戸の加藤政明氏は、昭和40年代中ごろ、いち早くボケの花木としての魅力に着目し、昭和50年代から農業経営としてボケの栽培を始めました。本来ボケの接ぎ木は、9月から10月の農繁期に行ってきましたが、加藤氏は農業の閑散期である1月から3月に、接ぎ木ができる技術を確立して、ボケの栽培と大量流通を新潟県内で発展させるきっかけをつくりました。加藤氏は新品種の育種と開発に尽力し、今までに20種類以上の新品種を開発しています。そして、現在の日本ボケ協会発足のため中心的な役割を果たし、会員の勧誘や組織結成にも力を注ぎました。日本ボケ協会では、毎年3月に小須戸で「日本ボケ展」を開催して、春を呼ぶ行事として人気も高まってきました。これらの努力と今までの積み重ねで、小須戸を中心に全国一といわれるボケの産地となりました。
<転載、以上>
●ボケ栽培の歴史●
上記、青葉区の花卉園芸のページにある「花卉園芸の歴史」には、いつ頃から、どのような理由でボケ栽培が行われたかが、解説されています。その部分を以下に転載します。
<転載、部分>
明和(1764〜1771年)の頃、三郎兵衛という人が山茶花(さざんか)・木瓜(ぼけ)・金木犀(きんもくせい)などを栽培し、行商によって生計をたてたのが始まりと言われています。
天保(1830〜1843年)の頃、天保の大飢饉でこの地域は、一粒の米もとれず子成場の農民は仏花を栽培し、他領でこれを米麦と交換してかろうじて生活をしのいだ者が多く、これを契機として、草花・果樹などを栽培する者が増えていき、この頃より小合の園芸が発展したと言われています。
孫兵衛という人が、子成場柿の苗木を生産していたこの頃の小唄に「越後コナシバの孫兵衛どんの柿は色もつかぬに買手がついた」と歌われ、当時いかに好評を博したかがしのばれます。
<転載、以上>
当初は、有用植物や果樹としての栽培というよりは、「仏花」としての需要だったのかもしれません。以下の章では、この「三郎兵衛」という人物とその時代背景を調べてみようと思います。
<この項、続く>
●現在のボケ栽培●
新潟市の公式サイトにある秋葉区の花卉農業についてのコーナー(公式サイトはこちら)からボケ栽培についての情報を以下に転載します。
<転載、部分>
ボケは、江戸時代の後半から花を観賞するようになり、大正時代の初期には急激に人気が高まり、越後小合園芸同好会から「放春花名鑑」が大正2年に発行され、27品種が載せられています。
盆栽や花木生産地として知られる小合・小須戸地区と埼玉県の川口市とは、互いに交流があり、両地方でボケの育種(品種改良)が盛んになり大正年間にブームがおきました。その後一時期流行も去り、昭和30年代には生産地においても十種を探すのに苦労するといった時代がありました。昭和40年代にボケの良さが見直され、昭和50年代には各地で少しづつ品種の改良と保存が始まり、新たなボケのブームが始まりました。
小須戸の加藤政明氏は、昭和40年代中ごろ、いち早くボケの花木としての魅力に着目し、昭和50年代から農業経営としてボケの栽培を始めました。本来ボケの接ぎ木は、9月から10月の農繁期に行ってきましたが、加藤氏は農業の閑散期である1月から3月に、接ぎ木ができる技術を確立して、ボケの栽培と大量流通を新潟県内で発展させるきっかけをつくりました。加藤氏は新品種の育種と開発に尽力し、今までに20種類以上の新品種を開発しています。そして、現在の日本ボケ協会発足のため中心的な役割を果たし、会員の勧誘や組織結成にも力を注ぎました。日本ボケ協会では、毎年3月に小須戸で「日本ボケ展」を開催して、春を呼ぶ行事として人気も高まってきました。これらの努力と今までの積み重ねで、小須戸を中心に全国一といわれるボケの産地となりました。
<転載、以上>
●ボケ栽培の歴史●
上記、青葉区の花卉園芸のページにある「花卉園芸の歴史」には、いつ頃から、どのような理由でボケ栽培が行われたかが、解説されています。その部分を以下に転載します。
<転載、部分>
明和(1764〜1771年)の頃、三郎兵衛という人が山茶花(さざんか)・木瓜(ぼけ)・金木犀(きんもくせい)などを栽培し、行商によって生計をたてたのが始まりと言われています。
天保(1830〜1843年)の頃、天保の大飢饉でこの地域は、一粒の米もとれず子成場の農民は仏花を栽培し、他領でこれを米麦と交換してかろうじて生活をしのいだ者が多く、これを契機として、草花・果樹などを栽培する者が増えていき、この頃より小合の園芸が発展したと言われています。
孫兵衛という人が、子成場柿の苗木を生産していたこの頃の小唄に「越後コナシバの孫兵衛どんの柿は色もつかぬに買手がついた」と歌われ、当時いかに好評を博したかがしのばれます。
<転載、以上>
当初は、有用植物や果樹としての栽培というよりは、「仏花」としての需要だったのかもしれません。以下の章では、この「三郎兵衛」という人物とその時代背景を調べてみようと思います。
<この項、続く>
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