【万葉集に登場する「児手柏」】
児手柏を読んだ歌は、二首あります。
1)
奈良山の児手柏の両面にかにもかくにも侫人の伴(巻16-3836)消奈行文太夫
<原文>奈良山乃 兒手柏之 兩面尓 左毛右毛 侫人之友
<読み>
ならやまのこのてがしわのふたおもに かにもかくにもねじけびとのとも(せなのぎょうもんまえつきみ)
<意味>奈良山に生えているコノテガシワが両面(裏表)が同じであるように、右にも左にも(誰に対しても)、へつらう(ひねくれた態度をとる)人がいるものだ。「侫人(ねじけびと)」とは、裏表があり人にへつらう人物のこと、または心のひねくれた人をいうようです。
●研究コメント
この場合は、表裏同じというコノデガシワですから、表裏がある人というよりは、「どの人にもひねくれた態度をとる」人とするほうが適当でしょう。「表裏のある」という場合は、異なる態度をとるということになり、表現的にあいません。
【作者について】
作者の消奈行文太夫は武蔵国高麗郡にいた帰化人の学者のようです。我が国最古の漢詩集『懐風藻』にも詩二篇を寄せています。高麗郡にはその名の通り大陸からの帰化人が多く居住しており、行文その王族の一人であったと思われます。武蔵国国分寺跡から移植されたコノデガシワの子孫(樹齢600年以上)があるの由緒(同寺の公式サイトより転載)には、以下のように記載されています。
●祥應寺(東京都国分寺市)の公式サイトは、こちらから。
<転載、部分>
天正十三年(741年)に聖武天皇より国分寺建立の詔が出され、国家安泰と消災吉祥を願い各国に国分寺、国分尼寺の創建計画がはじまります。武蔵国分寺創建にあたっては消奈行文の甥である高倉福信(背奈福信)が武蔵守在任の間に築かれました。祥應寺にあるコノテガシワはこの時代より武蔵国分寺境内に植栽されたものか、もしくはその子孫であると思われます。
<転載、以上>
もちろん、「奈良山」とあるので、もう一つのコノデガシワの古木があった(現在は、切り株のみです)奈良市の奈良豆比古神社の方がこの歌には合っているかもしれません。しかし、作者がコノデガシワを良く知っていたからこその歌という意味では、国分寺のコノデガシワも興味が湧くところです。
2)
千葉の野のこの児手柏の含まれど あやにかなしみ置きて誰が来ぬ(巻20-4387)大田部足人
<原文>知波乃奴乃 古乃弖加之波能 保々麻例等 阿夜尓加奈之美 於枳弖他加枳奴
<読み>ちばののの、このてかしは、ほほまれど、あやにかなしみ、おきて たがきぬ(おおたべのたりひと)
<意味>千葉の野のこのてがしわのように(あの子は)ういういしいが、なんとも痛々しくて、そのまま手も触れないで、野山を越えて(防人の任につくために)はるばるやって来たよ。
●研究コメント
作者の太田部足人は、下総国千葉県の人で天平勝宝七歳(755)二月、防人として筑紫に派遣されました。そのために、ほほまれど「ふふまれど」の東国訛りです。「蕾のままであるが」という意味になります。故郷のコノデガシワと娘を思っての歌です。
<作成中>
児手柏を読んだ歌は、二首あります。
1)
奈良山の児手柏の両面にかにもかくにも侫人の伴(巻16-3836)消奈行文太夫
<原文>奈良山乃 兒手柏之 兩面尓 左毛右毛 侫人之友
<読み>
ならやまのこのてがしわのふたおもに かにもかくにもねじけびとのとも(せなのぎょうもんまえつきみ)
<意味>奈良山に生えているコノテガシワが両面(裏表)が同じであるように、右にも左にも(誰に対しても)、へつらう(ひねくれた態度をとる)人がいるものだ。「侫人(ねじけびと)」とは、裏表があり人にへつらう人物のこと、または心のひねくれた人をいうようです。
●研究コメント
この場合は、表裏同じというコノデガシワですから、表裏がある人というよりは、「どの人にもひねくれた態度をとる」人とするほうが適当でしょう。「表裏のある」という場合は、異なる態度をとるということになり、表現的にあいません。
【作者について】
作者の消奈行文太夫は武蔵国高麗郡にいた帰化人の学者のようです。我が国最古の漢詩集『懐風藻』にも詩二篇を寄せています。高麗郡にはその名の通り大陸からの帰化人が多く居住しており、行文その王族の一人であったと思われます。武蔵国国分寺跡から移植されたコノデガシワの子孫(樹齢600年以上)があるの由緒(同寺の公式サイトより転載)には、以下のように記載されています。
●祥應寺(東京都国分寺市)の公式サイトは、こちらから。
<転載、部分>
天正十三年(741年)に聖武天皇より国分寺建立の詔が出され、国家安泰と消災吉祥を願い各国に国分寺、国分尼寺の創建計画がはじまります。武蔵国分寺創建にあたっては消奈行文の甥である高倉福信(背奈福信)が武蔵守在任の間に築かれました。祥應寺にあるコノテガシワはこの時代より武蔵国分寺境内に植栽されたものか、もしくはその子孫であると思われます。
<転載、以上>
もちろん、「奈良山」とあるので、もう一つのコノデガシワの古木があった(現在は、切り株のみです)奈良市の奈良豆比古神社の方がこの歌には合っているかもしれません。しかし、作者がコノデガシワを良く知っていたからこその歌という意味では、国分寺のコノデガシワも興味が湧くところです。
2)
千葉の野のこの児手柏の含まれど あやにかなしみ置きて誰が来ぬ(巻20-4387)大田部足人
<原文>知波乃奴乃 古乃弖加之波能 保々麻例等 阿夜尓加奈之美 於枳弖他加枳奴
<読み>ちばののの、このてかしは、ほほまれど、あやにかなしみ、おきて たがきぬ(おおたべのたりひと)
<意味>千葉の野のこのてがしわのように(あの子は)ういういしいが、なんとも痛々しくて、そのまま手も触れないで、野山を越えて(防人の任につくために)はるばるやって来たよ。
●研究コメント
作者の太田部足人は、下総国千葉県の人で天平勝宝七歳(755)二月、防人として筑紫に派遣されました。そのために、ほほまれど「ふふまれど」の東国訛りです。「蕾のままであるが」という意味になります。故郷のコノデガシワと娘を思っての歌です。
<作成中>
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和名について |
風土区分:日本 |
日本国内のコノデガシワの古木 |