【西洋にとっての「私」と日本の「私たち」】

河合隼雄氏は、「アイデンティティの深化」(「こころの最終講義」に収録)で西洋と日本の人生観の違いを明確に示してくれています。

先ず、西洋における「私」の確立=個人主義という「エゴ・アイデンティティ」(自己同一性)を重要視する傾向と日本における「アイデンティティ」の確立が難しいという違いを「私」より「私たち」という“場の論理を優先する傾向”の違いを知っておくことが重要だと語っています。その意味で日本におけるアイデンティティとは、西洋のようなアイデンティティの確立をそのまま踏襲していく教育では困難だという指摘をされています。
さらに、欧米が「父系性社会」であるのに対して、アジア、日本は「母系制社会」ことの違いを知っておくことの重要性を語られています。
このことは、日本での全世代でのコミュニティや社会活動を考えるのに重要な要素です。そして、現在の課題は、「アイデンティティの確立でなく、深化を考えることだとして、その現在の課題を明示しています。」以下にその部分を転載します。


<上記の河合氏の著作より、転載>

<転載、部分>

何が「私」を支えているか

ところが私がこれからお話したいのは、そういう(エリクソンなどの)考え方をもっと超えて、あるいはその考え方と異なる考え方でアイデンティティを考えねばならないのではないかということなんです。

その第一点は、さきほど申しました日本人の問題です。
エリクソンの考えを喜んでいるのもいいけれども、はたしてわれわれ日本人は、エリクソンのいうとおりのことはできるのだろうか。おそらくできないだろう。そうしたら、日本人は日本人のアイデンティティということをどう考えたらいいのかということが一つ。

それからもう一つ、これはアメリカの内部ででてきた批判なのですが、非常に面白いことにそれが女性たちからでたのです。

それはエリクソンのいっているアイデンティティの確立というのは、男性の原理に基づいた男性のためのものである。女性のアイデンティティの確立の仕方はそのようなものとちがう。だから女性が男性の原理にもとづいて無理にアイデンティティを確立させようと努力すると矛盾が起きるのではないかという批判でした。

それから、三番目に、これはまだ誰にもいっていません。私が考えていることですが、では老人はどうなるのかということです。

エリクソンのいうように、職業をもって結婚して社会になんとかかんとかというのだったら、年をとって、職業がなくなって、それほど社会と関係しなくなり、家族もみんな死んでいって、一人だけ残った人、この人のアイデンティティはどうしてくれるのか、ここのところが不問になっているのではないか、ということを私は思うのです。

<転載、以上>

そして、こうした課題に関わる話として、柳田国男の御先祖様という話をしています。ある人は、死んでご先祖様になるというアイデンティティをもつこと、ある少女は、誰もが死んで神様になる、おばあさんも月に行って神様になるという死生観をもつという話にいたります。これを「人生における相当な深さや強さを持っている」と評価しているということを語られます。そして、日本人ならではのアイデンティティという課題に関連して、以下に転載した部分で課題解決へのヒントとして、「ファンタジーをもつこと」の重要性を提示されます。

<転載、部分>

ファンタジーをもつこと

そのすごいことというのは、私にいわせますと、この子のファンタジーです。
おばあちゃんも頑固な神様にならはって、月にいるというのは、ファンタジーです。しかし、そのファンタジーがこの子を支えている、というふうに考えますと、われわれはアイデンティティを深めるためには自分のファンタジーをもたねばならない。といって、このこの神様への手紙を読んで、僕もそうしようと思っても、私は残念ながらもそうは思えません。たとえば私の母が、お月さんへ行って婦人会をやっているとは思えない。思えないけれども、「私なりの」ファンタジーはもちうる。
「私なりの」ということをすごく強調しましたが、これが私なりではなくて、すごい天才が出てきて、その天才がわれわれにファンタジーを示してくれて、そのファンタジーを共有しましょうというふうに考えたもの、それは一つの宗教になるだろうと思います。
(中略)
つまり、さっき言いましたように、日本人というのはエゴを確立して、おれがこうやり、こう考えるから、おれはアイデンティティを確立したんだというのではなくて、「私」が考えるというときにはほかのいろいろなものも入っている。そう考えてみますと、私はファンタジーということをいいましたが、ファンタジーということと日本人のアイデンティティというようなことも、どこかでつながってくるのではないかなと私は思っているわけです。

<転載、以上>

そして、次のように最終章の「自己実現の過程」で以下のように結んでいます。

<転載部分>

結論的にいうと、アイデンティティというのはいつできるといものではない、全生涯を覆って流れている問題ではないか。さっきの小学二年生の子が「自分はいずれ死んでもおばあちゃんといっしょに月の世界に住むんだ」といっているときには、そのことが、そのときのその子のアイデンティティを支えるファンタジーになっていますけれども、そのファンタジーは、その子が中学生になれば、そんな力はもたないかもしれない。そうすると何か新しいファンタジーがやっぱりできるのではないか。

だから、われわれは生涯の中で、その生涯にふさわしい自分のファンタジーというものをみつける必要がある。そしてそういう難しいことを辟易せずにやりぬくということが、非常に深い意味における宗教性というものにつながるのではないかというふうに私は考えます。


<転載、以上>

この河合先生の問題提起とその解決へのヒントは、重要な意味をもっています。
もちろん、氏は決して、宗教的になれといっているわけではありません。自分のアイデンティティを問いかける過程で、ファンタジー(ある意味では、なんだかのヴィジョンではないかと私は思います。)を持つことの重要性を課題解決へのヒントとして、皆に伝えているのだと思います。



次の段階への道、「課題解決への道を考える」ことは、この河合先生の課題提起に対して、自分たちで摸索し、考え出すしかありません。

【今の自分のアイデンティティを考えることで方向性を見つけ出す】

●個人のアイデンティティを考えていく中でのファンタジーを再度、考えてみます。
実は、「おばあちゃん」も「月」も自分にとっての存在として、なんだかの物としての「アイデンティティ(その存在の意味付け)」を持っていることに気づかされます。現実的な「もの」であると同時にそれをなんだかの存在と考える人にとっては、様々な意味ある存在となることが解ります。現代でしたら、「月」とは何かを知った段階で、この「月」は、この少女にとっては、違う何かになり、新たな知識をもった自分にとっての新たな「ファンタジー」が構成されるようになるでしょう。そして、「月」も新たなアイデンティティ(存在)として、理解されていくわけです。

学校や仕事場というコミュニティ以外での今の自分の置かれた環境や多様なコミュニティでのアイデンティティを考えることが今、必要になっているのではないでしょうか?その時々に自分がその中にいるコミュニティでのアイデンティティを求める日本独自の文化というものを考えることが重要なのではないでしょうか。

その時々のアイデンティティ確立のためにこそ、学校教育や職場教育とは異なるそのときどきの「社会教育」が求められているではないでしょうか。



この存在のアイデンティティを改めて、考えていく、問い直していくこと、河合先生の言葉を借りれば、そのときどきのファンタジー(ヴィジョン)、『自分にとっての固有なファンタジーという側面』から、そのアイデンティティを捉え、考えていきたいと思います。

そのアイデンティティと対峙し、参加したり、融合したり、関係することでそのコミュニティにおける『自らのアイデンティティを、ファンタジーをそのコミュニティの中での関係性の中で探し、発見していくことができるようになっていく』のではないでしょうか。


こうした様々のアイデンティティを問い直す行為や活動こそ、
社会人となっていく過程で周囲の環境、コミュニティなどで(友人、学問、、授業、倶楽部活動、アルバイト、学校という場所、その周囲の住環境、地域社会など全て)で自らのファンタジーとは何かを考える=その時々の生きがい認識していくことになると考えたいものです。


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