下屋敷の庭園は、現在もある同園の「ひょうたん池」の周りにあったと考えらえています。この園の敷地は、台地に細長い谷(谷戸)が入り込んだ地形で、この庭園は、その谷の部分に造られていました。

高松藩の歴代藩主は、庭園づくりに精を出したようで、地元の高松には、これらの歴代藩主が100年もかけてつくりあげた名園といわれる「栗林公園」があります。

当時の植生は、
谷を取り囲む斜面には、コナラなどの雑木林
台地の上には、マツ林が、広がっていたといいます。
特徴的なのは、敷地を囲む土塁の上と江戸時代以前にこの土地を所有していた「白銀長者の居館跡」周囲に植えられているスダジイの並木です。

このスダジイについては、「公園・神社の樹木(渡辺一夫著)」に詳しき記述があるので、それを以下に転載します。

<転載、部分>

昭和24年の自然教育園の開園当時は、直径1メートル以上のスダジイの巨木が60本以上も存在しており、現在でも約40本のスダジイが生き残っている。
園内で倒れた何本かのスダジイの切り株の年輪を調査した結果、興味深いことに多くのスダジイは、江戸時代の宝暦年間(1751〜1764年)の頃に植えられたものと考えられている。今は、巨木となったこれらのスダジイを植えたのが誰であったかも、史料としては残っていないが、おそらく、元文4年(1739年)から明和8年(1771年)まで、高松藩の第五代藩主であった松平頼恭(よりたか)でなかっただろうか。
頼恭は、水戸徳川家の分家から高松藩の養子となった藩主で、生物に造詣が深く、魚介類がや草花の図鑑の編集もしており、家臣であった平賀源内に薬草の研究を行わせている。高松藩の下屋敷でも早くから薬草園があったようで、西日本にしか分布しない植物が自然教育園に残っているのは、その薬草園の名残だといわれている。

頼恭の時代の高松藩は、慢性的な水不足にあえぎ、凶作が続いて藩の財政は逼迫していた。頼恭は、贅沢を禁じ、薬草や砂糖の栽培のほか、塩田の開発などを奨励し、財政の再建に努めたため、高松藩中興の祖である名君とされている。

防火のために植えられたスダジイ

宝暦年間に、たくさんのスダジイが植えられた理由は何だろうか?防風や土留めの目的もあるだろうが、もっとも重要な理由は、防火であろう。江戸の町は実に火事が多かった。もっとも有名なのは、明暦の大火(振袖家事)である。明暦三年(1657年)1月に発生したこの火災で、江戸の大半が焼失してしまった。元禄16年(1704年)11月に、小石川の水戸屋敷から出火した火事(「水戸様火事」と呼ばれている)も甚大な被害をもたらした。
江戸時代から樹木に防火作用があることは経験的に知られており、イチョウなどは防火能力が高いとみなされていた。スダジイは、常緑樹でたくさんの葉が生い茂る。その葉は水分を多く含み、防火樹として、非常に適していることが近年の研究でありらかになっている。逆にマツやスギなどの針葉樹は、体内にヤニ(脂)が多く含まれているため、燃えやすいし、コナラやミズキなどの落葉樹は冬には落葉してしまうために防火能力はあまり期待できない。植物にも詳しかった頼恭は、経験的にスダジイの防火能力を知っており、防火のためにスダジイの並木を土塁に植えたのではないだろうか。

明和の大火と戦ったスダジイ

このスダジイは、植えられてから、わずか20年後に実際に大火災に遭遇する。それは、明和9年(1772年)2月29日の「明和の大火」(行人坂の大火)である。
この「明和の大火」は、明暦の大火、文化の大火とともに江戸三大大火にあげられる。
目黒行人坂(現在の山手線目黒駅付近)にあった大円寺が放火により炎上し、南西よりの風にあおられて麻布から日本橋へと延焼を続け、神田、千住にまで達し、死者約15,000人、行方不明者約4,000人の第惨事となった。大円寺には、その死者の供養のための五百羅漢が造られている。
この大火による高松藩下屋敷の被害の正確な記録は残っていない。
しかし、高松藩の下屋敷が、火元の大円寺からわずか500メートルほどしか離れていなかったことを考えると、そこが猛火に包まれたことも想像に難くない。しかしながら、松平頼恭が植えたスダジイは、火を被りながらも生き残った。植えてから、20年ほどしかたっていない、まだ、若い木だったが、水分の多い葉を茂らせていたため、猛火を耐え抜いたのだろう。そして園内の樹木への類焼を少しでも軽減したのかもしれない。
これらのスダジイは、太平洋戦争時の空襲にも耐え、今も生い茂っている。

<転載、以上>

◆スダジイの品種詳細は、本サイトの樹木研究にあるこちらのカテゴリーをご覧ください。
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江戸時代には、高松藩主の松平讃岐守下屋敷