トップ  >  花の意匠、装飾(工芸、服飾へのアプローチ)  >  風土文化:日本  >  花柄の歴史  >  「花鳥」の意匠:その1 花鳥の使い
昔から、日本で知られる「花」と「鳥」の柄(意匠)は、どのように生まれたのでしょう。

花鳥の使い」という言葉について、その意味合いを教えてくれたのは、松岡正剛氏の著作、「日本数寄」の「花鳥の使い」という章の一文でした。

<以下、「日本数寄」松岡正剛著より転載>

昔、中国に「花鳥の使い」という言葉があった。
唐の玄宗皇帝が天下の美女を集めるために派遣した使者のことをいう。
転じて色恋の仲立ちを意味するようになった。いったい玄宗が美女を集めて何をしたかというと、すこぶる典雅なファッションショーをさせた。おそらく使者は、美女たちに「とびきりの花鳥のコスチュームが着られますよ」といってくどいたのだ。ショーのあと、美女たちは宮廷の鳥となり蝶となっていった。
花鳥の使いは日本にも伝わった。
(紀)貫之の甥が担当した『古今集』の真名序には、
「好色の家にはこれをもちて花鳥の使とし、乞食の客はこれをもちて活計の謀とする」とあって、花鳥の使いがもっぱら男女の艶をとりもつ役割をさしていただろうことがわかる。ただし貫之の仮名序ではこの一文がすっかり削られた。藤原時平のディレクションだったろう。
ちょうどこのころから、日本における花鳥感覚が艶っぽいイメージを脱却しはじめた。のちに大流行した「花鳥風月」という言葉には、もはや妖しく色っぽい気分は見当たらない。花鳥は風雅の友となったのだ。

<転載、以上>

中国から伝わった「花鳥の使い」がこうした背景をもつことは意外でした。がやはり、装飾文様に関する伝来も中国宮廷文化からの伝来なのだということを認識させられます。
プリンタ用画面
友達に伝える
投票数:40 平均点:5.75
カテゴリートップ
花柄の歴史
次
「花鳥」の意匠:その2 花柄と鳥柄の変遷と関係