【明治期の海外からの花卉品種の輸入】
明治時代、当初は他の欧米文物と同様に洋種花卉は、外国人商人によって、日本に在留する外国人のため洋ランや球根などが輸入されたようですが、明治20年代末から植物の輸出入を手広く行っていた横浜植木株式会社などの国内種苗商によって、日本人向けの輸入が本格化しました。
【政府のお雇い外国人園芸家の活躍】
<ルイス・ベーマー>
明治初期、北海道開拓使として、雇われたルイス・ベーマーが開拓使としての任期後に横浜に創業した「横浜ベーマー商会」が海外からの花卉種苗の輸入に大きく貢献しました。鈴木卯兵衛の横浜植木商会の設立も彼の存在なくしてはありえなかったようです。
<Wikipediaより、転載>
ルイス・ベーマー(Louis Boehmer, 1843年5月30日 - 1896年7月29日)は、明治初期のお雇い外国人(ドイツ系アメリカ人)。開拓使に雇用され10年の長きに亘りリンゴなどの果樹栽培やビール用ホップの自給化、各種植物の生育指導などで北海道の近代農業発展に貢献した。ドイツ北部・ハンブルク近郊のリューネブルク生まれ。
【経歴】
リューネブルク市内のギムナジウム卒業後、宮廷庭師の下で修業を積みハノーファーの王室造園所などに勤務し王室の庭園への就職を目指していたが、1867年普墺戦争勃発による戦渦を避けてアメリカに渡り、ニュージャージーを振り出しに上級園芸家として各地の造園業者の下で働いた後、定住を決意しニューヨーク州ロチェスターのマウント・ホープ・ナーセリー(1840−1918)に就職した。
1871年(明治4年)1月に渡米した開拓使次官の黒田清隆の要請に応えて開拓使顧問に就いたホーレス・ケプロンは知人の園芸商ピーター・ヘンダーソンが推薦するルイス・ベーマーを果樹園芸、植物生育分野の技術者として雇用した。1872年(明治5年)来日後開拓使で北海道の西洋農業化に貢献した。
【東京青山官園へ】
開拓使の草木培養方として雇われたルイス・ベーマーはサンフランシスコから船名 "Japan" に乗り1872年3月26日(明治5年2月18日)横浜に着いた。 東京青山の官園が勤務地であったが、この官園は外国(主にアメリカ)から輸入した家畜や草木を一旦根付かせその後北海道へ移送する為の中継基地の役割を担っていた。 10万坪を超える広大な官園には、小麦や大麦、豆類などの雑穀やアスパラガス、人参、玉葱、馬鈴薯などの野菜、リンゴやサクランボ、ブドウ、梨、桃といった果樹がたくさん植えられた。ルイス・ベーマーは農作物を主体とした第一・第二官園(現在の青山学院大学の一帯)の主任として指導に当たっていたが、ベーマー着任の1年後に牛や馬、豚、羊など家畜の飼育を行う第三官園の主任としてアメリカらやってきたエドウィン・ダンと交友を深めた。
ケプロンが "government farm" と呼んだ官園は外国の農業技術を導入するための施設として、ルイス・ベーマー等の外国人指導者による技術者養成をはじめ、試験や実験、啓蒙や普及といった活動も行われていた。そこに学んだのは主に農業現術生徒と呼ばれる若者であった。彼らは農家の出身ではなく、つい数年前まで各藩で将来を嘱望されて文武に励んでいた若者達で、明治新政府によって全国から集められた。
例えば明治5年(1872年)第一期生として入園した中田常太郎(当時30歳)は、東北戊辰戦争に敗れて捕らえられ北海道に移送された後明治4年に余市に入植した旧会津藩の武士の一人であったが、彼の様に逆賊と呼ばれた無念な思いを断ち切り新政府の農業研修制度に応募する若者も多かった。 ベーマーはこうした現術生徒を指導しながら、アメリカから持ち込み一旦青山官園に仮植されたリンゴの苗木を札幌や七重村(現七飯町)の官園へ移送する作業に取り掛かった。
【北海道へ植物相調査旅行】
1874年(明治7年)5月19日ルイス・ベーマーはケプロンの指示をうけ、北海道に向け蒸気船ニューヨーク号で出帆し、21日に函館に上陸した。その後10月19日蒸気船雷電丸で離道するまでの5ヶ月間全道各地を精力的に廻り植物相の調査や標本の採集を行ったが、途中沙流郡のアイヌ集落周辺でホップが自生しているのを発見し北海道におけるホップ栽培が有望であると判断したことが、後の札幌に於けるビール工場開設に寄与した。 札幌官園に立ち寄ったベーマーは、翌1875年(明治8年)から始まる果樹苗の一斉配布に供えて現術生徒等に接ぎ木の方法や栽培の要点を細かく指導した。
同年12月24日付けでベーマーがケプロンに提出した北海道本草採集報文に添えられた約500種類の押し花標本は、ケプロンの指示でニューヨークの植物学の権威 Asa. Gray 教授に送られ検定された後ハーバード大学に保管された。1875年(明治8年)ケプロンは任期満了で帰国したが、その翌年の1876年(明治9年)にこれらの標本は日本に返還され東京大学付属植物標本室に保管され、今もその一部が残されている。 東京官園に戻ったベーマーは果樹の中でもリンゴが北海道の気候風土に最も適していると判断し、4万本に及ぶ苗木の受け入れと北海道への移送の準備に励んだ。
【札幌へ転勤】
実践的指導に優れていたベーマーは1876年(明治9年)札幌官園への移動を命じられ、エドウィン・ダンと共に同年5月22日品川から玄武丸に乗り出帆した。 同年7月には米国マサチューセッツ農科大学を一次休職したウイリアム・スミス・クラークが札幌農学校(北海道大学の前身)教頭に就任した。
【業績】
<北海道開拓使>
1876年(明治9年)9月国内で初の官営ビール工場である開拓使麦酒醸造所(後のサッポロビール)が札幌に開業した。開拓使はドイツで醸造技術を習得した中川清兵衛(1848−1916)を主任技師に迎えて開業したが、ビールの味の決め手となるホップの栽培をベーマーが実現しなければ叶わなかったことである。現在の札幌駅前から時計台の当たりまでの一帯は広大なホップ畑であった。 また開拓使は葡萄酒醸造所の開設も同時に行ったが、葡萄の品種選定や葡萄園作りはベーマーの主要な任務であった。
札幌官園に着任したベーマーは早速に本格的な洋風温室を設計し、1876年(明治9年)11月、ガラス張り・ボイラー付きの豪華な温室が完成した。その後温室は一般にも公開され多くの市民に親しまれたが1878年(明治11年)2月にクラークの希望を受け札幌農学校に移管され専ら学術研究に供される事となり、その後1886年(明治19年)には現在の北大植物面内に移築された。 優れた園芸家でもあるベーマーは、札幌で最初の公園となる偕楽園内に和洋折衷の庭園建設を指導しているが、これが現存する清華亭の前庭である。
ベーマーの功績の中でも最も高く評価されるのはリンゴの生育指導であったが、1875年(明治8年)から全道に配布された苗木も着実に成長し、1879年(明治12年)には余市や札幌などからリンゴの初なりの報告が相次いでなされた。当時のリンゴは「六十六号」や「二十四号」など番号で呼ばれていたが、この番号は東京から札幌に送る際に品種名の代わりに付けられた数字で、ベーマーによって作られた「西洋果樹種類簿」によって管理されていた。 ちなみに1879年(明治12年)余市で結実された俗称「四十九号」は後に「国光」と命名されているが、最初の生産者の金子安蔵は1874年(明治7年)現術生徒(当時24歳)になりベーマーやダンから直接指導を受けた旧会津藩出身者である。
1880年(明治13年)、翌年の明治天皇の札幌訪問に備えて宿舎となる豊平館の建設工事が現在の札幌テレビ塔周辺で始まったが、この豊平館の庭の設計もベーマーによるものである。この時この庭園工事を手伝った上島正(1838−1919)は、ベーマーの指導を受けて花菖蒲の人工交配に成功し「我邦に於ける花卉媒助の鼻祖」と称され、その技術を様々な花卉の採種に応用して巨利をえた。上島の庭園(東皐園)で作られた花菖蒲はその後アメリカに輸出される事になるが、1882年(明治15年)に開拓使廃止によって横浜に移り園芸種の輸出入業を営む事となるベーマーがそれを支えた事が容易に想像される。
こうして、野菜や花卉、果樹や穀類など多くの有用な作物を短期間で北海道に定着させ、その後の発展の基礎を築いたルイス・ベーマーの業績は賞賛されて余りあるものがある。
【横浜ベーマー商会】
1882年(明治15年)開拓使の廃止にともないベーマーは同年3月12日来道時と同じ玄武丸で函館を後にした。同年4月30日をもって開拓使との契約は満了したが、就任期間10年3ヶ月はお雇い外国人としては2番目に長いものであった。この間ベーマーが妻帯していたという記録は残されていない。同年4月27日、横浜のブラフ28番(番地)に転居届けを出したベーマーはここで輸出入園芸業のベーマー商会を設立した。
ベーマーは本格的温室を建設し日本産植物の輸出と並行して西洋花卉の輸入培養を行うとともに、日本人の鈴木卯兵衛を仕入主任(番頭)に雇い、百合根貿易に力を注いだ。
アメリカ、カナダ、ドイツ、イギリスと次々に販路は拡大されベーマー商会は大いに潤った。当時生糸や茶など代表的な産品は外国商館を経なければ輸出できず自ずと日本側の利益は薄いものであったが、鈴木卯兵衛等は会社(後の横浜植木株式会社)を起こし、ベーマー商会の名義を活用してアメリカへの百合根輸出を始めた。 関税自主権のなかったこの時代に直貿易に近い形で日本側が厚い利益を取れたのは、日本贔屓で情義に厚いベーマーの存在が大きかった。
横浜に移り住んで12年、園芸商として成功を遂げたベーマーであったが、体調を崩しドイツで療養することとなり、2年前から共同経営者になっていたアルフレッド・ウンガーにベーマー商会を譲り、1894年10月13日英国船Ancona号で離日した。そして1896年7月29日、療養地ブラッケンブルクで53年の生涯を閉じた。
【参考文献】
あるお雇い外国人・園芸家の足跡 (中尾眞弓著)
ケプロンの教えと現術生徒 (富士田金輔著)
ルイス・ベーマー北海道植物調査報告 (上野昌美訳)
ケプロン日誌蝦夷と江戸 (西島照男訳)
さっぽろ文庫 第15巻「豊平館・清華亭」、第19巻「お雇い外国人」、第50巻「開拓使時代」
新選北海道史 (北海道)
余市農業発達史
余市生活文化発展史
旧会津藩士金子安蔵の生涯 (音更郷土史研究会)
旧会津藩士の足跡 (余市郷土研究会)
日本ユリ根貿易の歴史 (鈴木一郎著)
横浜植木株式会社100年史
プラントハンター (白幡洋三郎著)
江戸・東京の中のドイツ (ヨーゼフ・クライナー著、安藤勉訳)
私家版横浜開港誌 (神奈川新聞・祖父江一郎)
<転載、以上>
【横浜植木株式会社について】
<同社の「横浜植木120年の歩み」サイト(こちら)より、明治期の沿革を以下に転載>
●明治23年
2月7日:鈴木卯兵衛を代表者として、当社の前身、有限責任横浜植木商会を現在地に設立。
-直ちに北米オークランドに桑港(サンフランシスコ)支店開設。
-新宿御苑の洋蘭類を当社温室で委託管理。
●明治24年
4月2日:株式会社横浜植木商会設立発起人会を開き、定款を決める。
5月25日:神奈川県知事に設立願を提出、認可される。
6月1日:資本金5万円で株式会社横浜植木商会を設立。代表者鈴木卯兵衛専務取締役。
●明治26年
3月4日:鈴木卯兵衛専務取締役、販路拡張のため渡米。
10月30日:商法の施行に伴い、農商務大臣より定款の認可があり商号を株式会社横浜植木商会から横浜植木株式会社に変更。
-米国コロンブス世界博覧会に盆栽、日本庭園などを出品、好評を博す。
●明治28年
2月10日:米国内の情勢が変化し、大西洋側へ設置が適当との判断にて桑港(サンフランシスコ)支店を一時閉鎖。
●明治30年
4月11日:資本金5万円を増資、10万円とする。
春ー輸出用花菖蒲の栽培及び品質改良の為神奈川県久良岐郡屏風ヶ浦村磯子に花菖蒲園を開設。
●明治31年
12月:米国ニューヨーク市(ブロードウェイ街11番地)にニューヨーク事務所を開設。
●明治33年
-メキシコから洋蘭類多数を輸入する。
●明治35年
2月2日:米国のブロードウェイ事務所を閉鎖し、ニューヨーク市バークレー街31番ウールウォスビルにニューヨーク支店を開設。
●明治36年
3月:海外販路拡張に伴い一層増産の為東京府荏原郡蒲田村に花菖蒲の圃場を開設、磯子菖蒲園を閉鎖。
7月5日:資本金10万円増資、20万円とする。
-明治36年から37年にかけて、米国アーノルド植物園に桜80種を輸出する。
●明治37年
7月10日:業務の閑散期を利用し、パナマ帽の製造・販売を始める。
●明治38年
2月:本館二階建木造事務所新築落成。
●明治39年
上半期 メキシコ、マニラ、オランダから洋蘭および球根類を輸入販売、好成績をあげる。(鈴木清蔵、水田岩次郎、南洋へ出張し、蘭科植物を購入)
-当社および高木商会、田中幸太郎商店、新井清太郎商店、ロバート・フルトン商会5社共同で、奄美大島、徳之島、沖永良部島で百合の野生種買付けを行う。
●明治40年
2月3日:英国ロンドン市キングス街クレーヴンハウスにロンドン支店開設。
2月3日:資本金30万円増資、50万円とする。
-初めて定価表を発行、草花種子を小袋で国内販売。
-米国産桃苗40種を輸入(池田伴親博士の選出種)。
●明治41年
-中南米産カトレア・オンシデューム・オドントグロサム・ミルトニアなどをメキシコから輸入、培養する。
-蘭科植物専門のサンダー&サンズ社、ハイロウ社と日本国内一手販売の特約を結ぶ。サンダー著「サンダース・オーキッド・ガイド」を輸入販売。
-噴霧機を輸入し売り出す。
-農薬の輸入販売を始める。
-そ菜種子の国内販売を始める。
●明治42年
-高木喜太郎、フェニックス・ロベレニーの原産地探査に出張、発見できずに帰る。
●明治43年
-米国向け花菖蒲に病害、全量差し戻しされる。
5月:英国ロンドン日英博覧会に盆栽、日本庭園などを出品、名誉大賞を受賞。また、英国王立園芸協会から銀製大盃2個を受賞。
11月23日:初代社長鈴木卯兵衛没、享年72歳。
-米国デミング社からサクセスポンプ、農業用、家庭用デミング水上ポンプを輸入、同社の日本総代理店となる。
-硫酸ニコチン「ブラックリーフ40」、砒酸鉛、レモンオイルなどの殺虫剤を輸入販売。
-英国リチャード社製シトロンインセクチサイド、ミルデーワッシュ、ウォームデストロイヤー、ヘレボアパウダーを輸入販売。
-米国からウェドデストロイヤーを輸入販売。
●明治44年
2月:第二代社長に鈴木浜吉就任。
●明治45年
-東京市がワシントン市に桜を寄贈、当社が輸出業務を手がける。
5月:英国ロンドン万国園芸博覧会に出品、金大牌、銀大牌各1個を受賞。
-水田岩次郎、鈴木喜三郎、第1回南洋方面出張、蘭科植物を購入。
-米国から殺菌剤パリスグリーン、殺虫剤ツリータングルフードを輸入販売。
9月13日:明治天皇御大葬に際し、英国皇室から贈られる花輪の調整方をコンノート殿下より下命を受ける。
-中山試作場でリンゴ苗、桃苗などを接木繁殖(大正2年から発売)。
<転載、以上>
明治時代、当初は他の欧米文物と同様に洋種花卉は、外国人商人によって、日本に在留する外国人のため洋ランや球根などが輸入されたようですが、明治20年代末から植物の輸出入を手広く行っていた横浜植木株式会社などの国内種苗商によって、日本人向けの輸入が本格化しました。
【政府のお雇い外国人園芸家の活躍】
<ルイス・ベーマー>
明治初期、北海道開拓使として、雇われたルイス・ベーマーが開拓使としての任期後に横浜に創業した「横浜ベーマー商会」が海外からの花卉種苗の輸入に大きく貢献しました。鈴木卯兵衛の横浜植木商会の設立も彼の存在なくしてはありえなかったようです。
<Wikipediaより、転載>
ルイス・ベーマー(Louis Boehmer, 1843年5月30日 - 1896年7月29日)は、明治初期のお雇い外国人(ドイツ系アメリカ人)。開拓使に雇用され10年の長きに亘りリンゴなどの果樹栽培やビール用ホップの自給化、各種植物の生育指導などで北海道の近代農業発展に貢献した。ドイツ北部・ハンブルク近郊のリューネブルク生まれ。
【経歴】
リューネブルク市内のギムナジウム卒業後、宮廷庭師の下で修業を積みハノーファーの王室造園所などに勤務し王室の庭園への就職を目指していたが、1867年普墺戦争勃発による戦渦を避けてアメリカに渡り、ニュージャージーを振り出しに上級園芸家として各地の造園業者の下で働いた後、定住を決意しニューヨーク州ロチェスターのマウント・ホープ・ナーセリー(1840−1918)に就職した。
1871年(明治4年)1月に渡米した開拓使次官の黒田清隆の要請に応えて開拓使顧問に就いたホーレス・ケプロンは知人の園芸商ピーター・ヘンダーソンが推薦するルイス・ベーマーを果樹園芸、植物生育分野の技術者として雇用した。1872年(明治5年)来日後開拓使で北海道の西洋農業化に貢献した。
【東京青山官園へ】
開拓使の草木培養方として雇われたルイス・ベーマーはサンフランシスコから船名 "Japan" に乗り1872年3月26日(明治5年2月18日)横浜に着いた。 東京青山の官園が勤務地であったが、この官園は外国(主にアメリカ)から輸入した家畜や草木を一旦根付かせその後北海道へ移送する為の中継基地の役割を担っていた。 10万坪を超える広大な官園には、小麦や大麦、豆類などの雑穀やアスパラガス、人参、玉葱、馬鈴薯などの野菜、リンゴやサクランボ、ブドウ、梨、桃といった果樹がたくさん植えられた。ルイス・ベーマーは農作物を主体とした第一・第二官園(現在の青山学院大学の一帯)の主任として指導に当たっていたが、ベーマー着任の1年後に牛や馬、豚、羊など家畜の飼育を行う第三官園の主任としてアメリカらやってきたエドウィン・ダンと交友を深めた。
ケプロンが "government farm" と呼んだ官園は外国の農業技術を導入するための施設として、ルイス・ベーマー等の外国人指導者による技術者養成をはじめ、試験や実験、啓蒙や普及といった活動も行われていた。そこに学んだのは主に農業現術生徒と呼ばれる若者であった。彼らは農家の出身ではなく、つい数年前まで各藩で将来を嘱望されて文武に励んでいた若者達で、明治新政府によって全国から集められた。
例えば明治5年(1872年)第一期生として入園した中田常太郎(当時30歳)は、東北戊辰戦争に敗れて捕らえられ北海道に移送された後明治4年に余市に入植した旧会津藩の武士の一人であったが、彼の様に逆賊と呼ばれた無念な思いを断ち切り新政府の農業研修制度に応募する若者も多かった。 ベーマーはこうした現術生徒を指導しながら、アメリカから持ち込み一旦青山官園に仮植されたリンゴの苗木を札幌や七重村(現七飯町)の官園へ移送する作業に取り掛かった。
【北海道へ植物相調査旅行】
1874年(明治7年)5月19日ルイス・ベーマーはケプロンの指示をうけ、北海道に向け蒸気船ニューヨーク号で出帆し、21日に函館に上陸した。その後10月19日蒸気船雷電丸で離道するまでの5ヶ月間全道各地を精力的に廻り植物相の調査や標本の採集を行ったが、途中沙流郡のアイヌ集落周辺でホップが自生しているのを発見し北海道におけるホップ栽培が有望であると判断したことが、後の札幌に於けるビール工場開設に寄与した。 札幌官園に立ち寄ったベーマーは、翌1875年(明治8年)から始まる果樹苗の一斉配布に供えて現術生徒等に接ぎ木の方法や栽培の要点を細かく指導した。
同年12月24日付けでベーマーがケプロンに提出した北海道本草採集報文に添えられた約500種類の押し花標本は、ケプロンの指示でニューヨークの植物学の権威 Asa. Gray 教授に送られ検定された後ハーバード大学に保管された。1875年(明治8年)ケプロンは任期満了で帰国したが、その翌年の1876年(明治9年)にこれらの標本は日本に返還され東京大学付属植物標本室に保管され、今もその一部が残されている。 東京官園に戻ったベーマーは果樹の中でもリンゴが北海道の気候風土に最も適していると判断し、4万本に及ぶ苗木の受け入れと北海道への移送の準備に励んだ。
【札幌へ転勤】
実践的指導に優れていたベーマーは1876年(明治9年)札幌官園への移動を命じられ、エドウィン・ダンと共に同年5月22日品川から玄武丸に乗り出帆した。 同年7月には米国マサチューセッツ農科大学を一次休職したウイリアム・スミス・クラークが札幌農学校(北海道大学の前身)教頭に就任した。
【業績】
<北海道開拓使>
1876年(明治9年)9月国内で初の官営ビール工場である開拓使麦酒醸造所(後のサッポロビール)が札幌に開業した。開拓使はドイツで醸造技術を習得した中川清兵衛(1848−1916)を主任技師に迎えて開業したが、ビールの味の決め手となるホップの栽培をベーマーが実現しなければ叶わなかったことである。現在の札幌駅前から時計台の当たりまでの一帯は広大なホップ畑であった。 また開拓使は葡萄酒醸造所の開設も同時に行ったが、葡萄の品種選定や葡萄園作りはベーマーの主要な任務であった。
札幌官園に着任したベーマーは早速に本格的な洋風温室を設計し、1876年(明治9年)11月、ガラス張り・ボイラー付きの豪華な温室が完成した。その後温室は一般にも公開され多くの市民に親しまれたが1878年(明治11年)2月にクラークの希望を受け札幌農学校に移管され専ら学術研究に供される事となり、その後1886年(明治19年)には現在の北大植物面内に移築された。 優れた園芸家でもあるベーマーは、札幌で最初の公園となる偕楽園内に和洋折衷の庭園建設を指導しているが、これが現存する清華亭の前庭である。
ベーマーの功績の中でも最も高く評価されるのはリンゴの生育指導であったが、1875年(明治8年)から全道に配布された苗木も着実に成長し、1879年(明治12年)には余市や札幌などからリンゴの初なりの報告が相次いでなされた。当時のリンゴは「六十六号」や「二十四号」など番号で呼ばれていたが、この番号は東京から札幌に送る際に品種名の代わりに付けられた数字で、ベーマーによって作られた「西洋果樹種類簿」によって管理されていた。 ちなみに1879年(明治12年)余市で結実された俗称「四十九号」は後に「国光」と命名されているが、最初の生産者の金子安蔵は1874年(明治7年)現術生徒(当時24歳)になりベーマーやダンから直接指導を受けた旧会津藩出身者である。
1880年(明治13年)、翌年の明治天皇の札幌訪問に備えて宿舎となる豊平館の建設工事が現在の札幌テレビ塔周辺で始まったが、この豊平館の庭の設計もベーマーによるものである。この時この庭園工事を手伝った上島正(1838−1919)は、ベーマーの指導を受けて花菖蒲の人工交配に成功し「我邦に於ける花卉媒助の鼻祖」と称され、その技術を様々な花卉の採種に応用して巨利をえた。上島の庭園(東皐園)で作られた花菖蒲はその後アメリカに輸出される事になるが、1882年(明治15年)に開拓使廃止によって横浜に移り園芸種の輸出入業を営む事となるベーマーがそれを支えた事が容易に想像される。
こうして、野菜や花卉、果樹や穀類など多くの有用な作物を短期間で北海道に定着させ、その後の発展の基礎を築いたルイス・ベーマーの業績は賞賛されて余りあるものがある。
【横浜ベーマー商会】
1882年(明治15年)開拓使の廃止にともないベーマーは同年3月12日来道時と同じ玄武丸で函館を後にした。同年4月30日をもって開拓使との契約は満了したが、就任期間10年3ヶ月はお雇い外国人としては2番目に長いものであった。この間ベーマーが妻帯していたという記録は残されていない。同年4月27日、横浜のブラフ28番(番地)に転居届けを出したベーマーはここで輸出入園芸業のベーマー商会を設立した。
ベーマーは本格的温室を建設し日本産植物の輸出と並行して西洋花卉の輸入培養を行うとともに、日本人の鈴木卯兵衛を仕入主任(番頭)に雇い、百合根貿易に力を注いだ。
アメリカ、カナダ、ドイツ、イギリスと次々に販路は拡大されベーマー商会は大いに潤った。当時生糸や茶など代表的な産品は外国商館を経なければ輸出できず自ずと日本側の利益は薄いものであったが、鈴木卯兵衛等は会社(後の横浜植木株式会社)を起こし、ベーマー商会の名義を活用してアメリカへの百合根輸出を始めた。 関税自主権のなかったこの時代に直貿易に近い形で日本側が厚い利益を取れたのは、日本贔屓で情義に厚いベーマーの存在が大きかった。
横浜に移り住んで12年、園芸商として成功を遂げたベーマーであったが、体調を崩しドイツで療養することとなり、2年前から共同経営者になっていたアルフレッド・ウンガーにベーマー商会を譲り、1894年10月13日英国船Ancona号で離日した。そして1896年7月29日、療養地ブラッケンブルクで53年の生涯を閉じた。
【参考文献】
あるお雇い外国人・園芸家の足跡 (中尾眞弓著)
ケプロンの教えと現術生徒 (富士田金輔著)
ルイス・ベーマー北海道植物調査報告 (上野昌美訳)
ケプロン日誌蝦夷と江戸 (西島照男訳)
さっぽろ文庫 第15巻「豊平館・清華亭」、第19巻「お雇い外国人」、第50巻「開拓使時代」
新選北海道史 (北海道)
余市農業発達史
余市生活文化発展史
旧会津藩士金子安蔵の生涯 (音更郷土史研究会)
旧会津藩士の足跡 (余市郷土研究会)
日本ユリ根貿易の歴史 (鈴木一郎著)
横浜植木株式会社100年史
プラントハンター (白幡洋三郎著)
江戸・東京の中のドイツ (ヨーゼフ・クライナー著、安藤勉訳)
私家版横浜開港誌 (神奈川新聞・祖父江一郎)
<転載、以上>
【横浜植木株式会社について】
<同社の「横浜植木120年の歩み」サイト(こちら)より、明治期の沿革を以下に転載>
●明治23年
2月7日:鈴木卯兵衛を代表者として、当社の前身、有限責任横浜植木商会を現在地に設立。
-直ちに北米オークランドに桑港(サンフランシスコ)支店開設。
-新宿御苑の洋蘭類を当社温室で委託管理。
●明治24年
4月2日:株式会社横浜植木商会設立発起人会を開き、定款を決める。
5月25日:神奈川県知事に設立願を提出、認可される。
6月1日:資本金5万円で株式会社横浜植木商会を設立。代表者鈴木卯兵衛専務取締役。
●明治26年
3月4日:鈴木卯兵衛専務取締役、販路拡張のため渡米。
10月30日:商法の施行に伴い、農商務大臣より定款の認可があり商号を株式会社横浜植木商会から横浜植木株式会社に変更。
-米国コロンブス世界博覧会に盆栽、日本庭園などを出品、好評を博す。
●明治28年
2月10日:米国内の情勢が変化し、大西洋側へ設置が適当との判断にて桑港(サンフランシスコ)支店を一時閉鎖。
●明治30年
4月11日:資本金5万円を増資、10万円とする。
春ー輸出用花菖蒲の栽培及び品質改良の為神奈川県久良岐郡屏風ヶ浦村磯子に花菖蒲園を開設。
●明治31年
12月:米国ニューヨーク市(ブロードウェイ街11番地)にニューヨーク事務所を開設。
●明治33年
-メキシコから洋蘭類多数を輸入する。
●明治35年
2月2日:米国のブロードウェイ事務所を閉鎖し、ニューヨーク市バークレー街31番ウールウォスビルにニューヨーク支店を開設。
●明治36年
3月:海外販路拡張に伴い一層増産の為東京府荏原郡蒲田村に花菖蒲の圃場を開設、磯子菖蒲園を閉鎖。
7月5日:資本金10万円増資、20万円とする。
-明治36年から37年にかけて、米国アーノルド植物園に桜80種を輸出する。
●明治37年
7月10日:業務の閑散期を利用し、パナマ帽の製造・販売を始める。
●明治38年
2月:本館二階建木造事務所新築落成。
●明治39年
上半期 メキシコ、マニラ、オランダから洋蘭および球根類を輸入販売、好成績をあげる。(鈴木清蔵、水田岩次郎、南洋へ出張し、蘭科植物を購入)
-当社および高木商会、田中幸太郎商店、新井清太郎商店、ロバート・フルトン商会5社共同で、奄美大島、徳之島、沖永良部島で百合の野生種買付けを行う。
●明治40年
2月3日:英国ロンドン市キングス街クレーヴンハウスにロンドン支店開設。
2月3日:資本金30万円増資、50万円とする。
-初めて定価表を発行、草花種子を小袋で国内販売。
-米国産桃苗40種を輸入(池田伴親博士の選出種)。
●明治41年
-中南米産カトレア・オンシデューム・オドントグロサム・ミルトニアなどをメキシコから輸入、培養する。
-蘭科植物専門のサンダー&サンズ社、ハイロウ社と日本国内一手販売の特約を結ぶ。サンダー著「サンダース・オーキッド・ガイド」を輸入販売。
-噴霧機を輸入し売り出す。
-農薬の輸入販売を始める。
-そ菜種子の国内販売を始める。
●明治42年
-高木喜太郎、フェニックス・ロベレニーの原産地探査に出張、発見できずに帰る。
●明治43年
-米国向け花菖蒲に病害、全量差し戻しされる。
5月:英国ロンドン日英博覧会に盆栽、日本庭園などを出品、名誉大賞を受賞。また、英国王立園芸協会から銀製大盃2個を受賞。
11月23日:初代社長鈴木卯兵衛没、享年72歳。
-米国デミング社からサクセスポンプ、農業用、家庭用デミング水上ポンプを輸入、同社の日本総代理店となる。
-硫酸ニコチン「ブラックリーフ40」、砒酸鉛、レモンオイルなどの殺虫剤を輸入販売。
-英国リチャード社製シトロンインセクチサイド、ミルデーワッシュ、ウォームデストロイヤー、ヘレボアパウダーを輸入販売。
-米国からウェドデストロイヤーを輸入販売。
●明治44年
2月:第二代社長に鈴木浜吉就任。
●明治45年
-東京市がワシントン市に桜を寄贈、当社が輸出業務を手がける。
5月:英国ロンドン万国園芸博覧会に出品、金大牌、銀大牌各1個を受賞。
-水田岩次郎、鈴木喜三郎、第1回南洋方面出張、蘭科植物を購入。
-米国から殺菌剤パリスグリーン、殺虫剤ツリータングルフードを輸入販売。
9月13日:明治天皇御大葬に際し、英国皇室から贈られる花輪の調整方をコンノート殿下より下命を受ける。
-中山試作場でリンゴ苗、桃苗などを接木繁殖(大正2年から発売)。
<転載、以上>
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