【大学生活=アイデンティティを探す旅へーその展開は、「課題発見」へと進んでいきますー】

●前章での「こころの講義」の心臓ともいえる河合先生の課題提起とその解決へのヒントを以下に転載して、ご紹介します。

<転載、部分>

何が「私」を支えているか

ところが私がこれからお話したいのは、そういう(エリクソンなどの)考え方をもっと超えて、あるいはその考え方と異なる考え方でアイデンティティを考えねばならないのではないかということなんです。

その第一点は、さきほど申しました日本人の問題です。

エリクソンの考えを喜んでいるのもいいけれども、はたしてわれわれ日本人は、エリクソンのいうとおりのことはできるのだろうか。おそらくできないだろう。そうしたら、日本人は日本人のアイデンティティということをどう考えたらいいのかということが一つ。

それからもう一つ、これはアメリカの内部ででてきた批判なのですが、非常に面白いことにそれが女性たちからでたのです。

それはエリクソンのいっているアイデンティティの確立というのは、男性の原理に基づいた男性のためのものである。女性のアイデンティティの確立の仕方はそのようなものとちがう。だから女性が男性の原理にもとづいて無理にアイデンティティを確立させようと努力すると矛盾が起きるのではないかという批判でした。

それから、三番目に、これはまだ誰にもいっていません。私が考えていることですが、では老人はどうなるのかということです。

エリクソンのいうように、職業をもって結婚して社会になんとかかんとかというのだったら、年をとって、職業がなくなって、それほど社会と関係しなくなり、家族もみんな死んでいって、一人だけ残った人、この人のアイデンティティはどうしてくれるのか、
ここのところが不問になっているのではないか、ということを私は思うのです。


<転載、以上>

そして、河合氏は、こうした課題に関わる話として、柳田国男の御先祖様という話をしています。ある人は、死んでご先祖様になるというアイデンティティをもつこと、ある少女は、誰もが死んで神様になる、おばあさんも月に行って神様になるという死生観をもつという話にいたります。これを「人生における相当な深さや強さを持っている」と評価しているということを語られます。そして、日本人ならではのアイデンティティという課題に関連して、以下に転載した部分で課題解決へのヒントとして、「ファンタジーをもつこと」の重要性を提示されます。

<転載、部分>

ファンタジーをもつこと

そのすごいことというのは、私にいわせますと、この子のファンタジーです。
おばあちゃんも頑固な神様にならはって、月にいるというのは、ファンタジーです。しかし、そのファンタジーがこの子を支えている、というふうに考えますと、われわれはアイデンティティを深めるためには自分のファンタジーをもたねばならない。といって、このこの神様への手紙を読んで、僕もそうしようと思っても、私は残念ながらもそうは思えません。たとえば私の母が、お月さんへ行って婦人会をやっているとは思えない。思えないけれども、「私なりの」ファンタジーはもちうる。
「私なりの」ということをすごく強調しましたが、これが私なりではなくて、すごい天才が出てきて、その天才がわれわれにファンタジーを示してくれて、そのファンタジーを共有しましょうというふうに考えたもの、それは一つの宗教になるだろうと思います。
(中略)
つまり、さっき言いましたように、日本人というのはエゴを確立して、おれがこうやり、こう考えるから、おれはアイデンティティを確立したんだというのではなくて、「私」が考えるというときにはほかのいろいろなものも入っている。そう考えてみますと、私はファンタジーということをいいましたが、ファンタジーということと日本人のアイデンティティというようなことも、どこかでつながってくるのではないかなと私は思っているわけです。


<転載、以上>

そして、次のように最終章の「自己実現の過程」で以下のように結んでいます。

<転載部分>

結論的にいうと、アイデンティティというのはいつできるといものではない、全生涯を覆って流れている問題ではないか。さっきの小学二年生の子が「自分はいずれ死んでもおばあちゃんといっしょに月の世界に住むんだ」といっているときには、そのことが、そのときのその子のアイデンティティを支えるファンタジーになっていますけれども、そのファンタジーは、その子が中学生になれば、そんな力はもたないかもしれない。そうすると何か新しいファンタジーがやっぱりできるのではないか。

だから、われわれは生涯の中で、その生涯にふさわしい自分のファンタジーというものをみつける必要がある。そしてそういう難しいことを辟易せずにやりぬくということが、非常に深い意味における宗教性というものにつながるのではないかというふうに私は考えます。


<転載、以上>

この河合先生の問題提起とその解決へのヒントは、重要な意味をもっています。

もちろん、氏は決して、宗教的になれといっているわけではありません。自分のアイデンティティを問いかける過程で、ファンタジー(ある意味では、なんだかのヴィジョンではないかと私は思います。)を持つことの重要性を課題解決へのヒントとして、皆に伝えているのだと思います。



次の段階への道、「課題解決への道を考える」ことは、この河合先生の課題提起に対して、自分たちで摸索し、考え出すしかありません。

【大学という場所、そこに存在する様々なアイデンティティを考えることで方向性を見つけ出す】

●個人のアイデンティティを考えていく中でのファンタジーを再度、考えてみます。

実は、「おばあちゃん」も「月」も自分にとっての存在として、なんだかの物としての「アイデンティティ(その存在の意味付け)」を持っていることに気づかされます。現実的な「もの」であると同時にそれをなんだかの存在と考える人にとっては、様々な意味ある存在となることが解ります。現代でしたら、「月」とは何かを知った段階で、この「月」は、この少女にとっては、違う何かになり、新たな知識をもった自分にとっての新たな「ファンタジー」が構成されるようになるでしょう。そして、「月」も新たなアイデンティティ(存在)として、理解されていくわけです。

大学に入学して、人以外のもの、学部、学ぶ学科、科目、大学という組織や場所も現実の存在であると同時に「なんだかのアイデンティティをもつ存在」であることに入学して、気づかされるでしょう。
欧米型の大学教育が「アイデンティティの確立(大人になる、自立する)」のためのものであるなら、単に職業につくための教育ということになりますが、ほんとうにそれだけなのでしょうか?

宗教のようにこれらの人以外のもの、その存在(アイデンティティ)は、最初は、ある天才や先人が生みだしたものですが、今では、教会や教義のように多くの手を経て、変化し、異なる「アイデンティティ」として、その前に立ち、関わる人々の手で育ち、変化してきたのです。


社会、コミュニティ、もちろん大学という組織や場所もその存在を意識する人々にとってのなんだかの存在であり、個人と同じように一言でその存在を「何々」と一言で説明できないもの、常に変化しているものであることに気づきます。

この存在のアイデンティティを改めて、考えていく、問い直していくこと、河合先生の言葉を借りれば、なんだかのファンタジー(ヴィジョン)、『自分にとっての固有なファンタジーという側面』から、大学教育、そのもののアイデンティティを捉え、考えていきたいと思います。

そのアイデンティティと対峙し、参加したり、融合したり、関係することで大学生活における『自らのアイデンティティを、ファンタジーをその関係性の中で探し、発見していくことができるようになっていく』ことこそが大学で過ごす私たちの求めるものなのではないでしょうか。


こうした様々のアイデンティティを問い直す行為や活動こそ、
大学生活という環境(友人、学問、、授業、倶楽部活動、アルバイト、学校という場所、その周囲の住環境、地域社会など全て)を自らのファンタジーの中に取り込んでいく、その時々の生きがい認識していくことになると考えたいものです。


●次の章以降では、具体的に大学にある様々なアイデンティティを発見し、自分たちとの関わり、そのファンタジーへとつながるものとして、学ぶ最初の体験をしていきます。

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