トップ  >  花研究  >  「バラ科」研究  >  サクラ属(Prunus, Cerasus)  >  桜研究  >  風土区分:日本  >  時代区分  >  江戸時代の桜  >  遊郭の桜  >  新吉原 仲の町の桜(2) 始まりを知る:寛延二年と寛保二年開始という2つの説
どうも、江戸時代の江戸の年中行事、特に新吉原に関する文献によると仲の町の桜が植えられた最初は、大きく2説にわかれるようです。
寛延二年と寛保二年の二つ
がそれです。
まず、「燕石十種」に収録されている江戸時代の新吉原についての文献「吉原雑話」「新吉原略説」にある仲の町の桜についての記述を以下にご紹介します。
最初は、寛延二年説です。

吉原雑話
刊行された年代、作者不明。「青楼雑話」とも呼ばれる。

<以下、転載部分>

花を植る事
一、三月仲の町へ桜を植る事も、其はじめは、茶屋の家家にて、鉢植のもの少々縁がわなどへならべけるが、年年に家の前に植る事にもなりけるよし、夫も家々の前へ、板にて花だんのやうにこしらへ、其中へ植し也、やうやく寛延の頃おひかと覚へしよし、
老人云、三浦屋があげびさしとて、二重びさしの家作り、わけある事のよし、或は御用金彦右衛門がともいふ、

<転載、以上>

桜を植えることになった時期については、この文献では「寛延の頃」としています。寛延年間は、1748〜1750年です。
享保年間に書かれたとされる「吉原雑話」ですが、それ以後の寛延年間の話ですから、この文献の成立年代は、少なくとも寛延以後であることは確かでしょう。
桜を植えるようになる前から、鉢植えを飾ったり、縁側に並べていたのが、家の前に花壇のように植えるようになったと説明しています。この寛延二年説は、「洞房古鑑」などに書かれてもいます。

次に寛保二年(寛保元年に願い出て、実現したのが二年)という説です。「新吉原略説」では、以下のようになっています。

新吉原略説
文政八(1825)年刊行

<転載部分>

三月中桜を植ることは、寛保元年(1742)辛酉三月、廊中より願ひ出たりしは、中の町茶屋軒なみに、せき台植の桜を出し置きたきよし願ひたるに、其事叶ひ、さて翌年(1743)より、初て中の町へ植ることとはなりし、七月、中の町へ燈籠をともすことは、享保十三年戌申七月、中万字屋の遊女玉菊が追善に、始めて桃灯を出したりしが、年を追ひ美を尽して、今の如くにはなりし也(以下、略)

<転載、以上>

新吉原略説では、寛延ではなく、もう少し前の寛保元年に願い出て、二年から始まったという説です。燈籠をともすことになったのが享保十三年(1729年)ですから、それに十三年ほど遅れてのこととしています。廊中より、願い出てということですが、燈籠のように遊女玉菊の追善といった理由は述べていません。この文献は、文政年間発行の文献ですが、何故、この時期であったかを類推できる内容は記述されていません。この寛保元年説は、明和五年(1768年)「吉原大全」や「吉原青楼年中行事」等も同様の説です。
どうも文献の数的に見ると、寛保元年、二年というのが始まりのようなのですが、。
その由来などは、寛延二年説の「洞房古鑑」に詳しいのでなんとも判断が難しいようです。

また、「吉原大全」によると植えられたのは、二月二十五日頃のようです。しかも、具体的にどのように植えられたのかも記述しています。

<転載部分>

大門口より、水戸尻まで、青竹をもって欄干をつくり、桃梅、あけがすみに、いろをまじへ、春風にかほりて衣にうつる、ふぜいげに
羣玉瑤臺(ぐんぎょくようだい)の仙境もいかでかこれにまさるべき

<転載、以上>

大門口から、水戸尻までという長さで青竹を組んだ欄干がこの桜などの花々を囲っているような風景だったようです。もちろん、桜だけでなく、様々な花がその時期ごとに香る風情をかもしていたのでしょう。

次の章では、「洞房古鑑」の由来についての説を江戸の風俗研究者として知られる三田村鳶魚の「江戸年中行事」に書かれた同書の解説から読み解いてみます。

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