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江戸時代のさくらそう流行と風俗への影響

江戸時代、「桜草」は、天和年間、園芸書に登場してから、安永、享保年間に始まったさくらそう花見をきっかけに、天明、文政年間にかけて、さくらそう園芸栽培にまで発展した流行が起こります。
園芸種の栽培、鑑賞が町民の間で流行するにつれて、様々な文化芸術、風俗に影響を与えていきました。このカテゴリーでは、その一つ一つを取り上げていきます。

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富本節と桜草紋
富本節は、三味線音楽のひとつで、浄瑠璃の一種。
創始した初代の富本豊前掾の実子、富本午之助が、1770年に宗家二代目富本豊前太夫を襲名。1817年10月受領して「富本豊前掾藤原敬政」となりました。
その襲名披露に松江藩松平治郷(不昧公)より『七重八重野辺の錦や桜草』という歌と七本桜の紋所を祝ってもらい、以後七本桜の桜草が富本の定紋となったといわれています。

このカテゴリーでは、この富本節と桜草の流行について取り上げます。