常磐津、清元、新内、宮薗節などを総稱して豊後系浄瑠璃というのは、これらがいずれも豊後節から分かれたものだからである。
豊後節の祖は宮古路豊後掾と云い、「都一中が門人にして、始は都国太夫半中と號し、後に宮古路国太夫と改め、一中節を変化せしめ一流を語り出し、享保三年戌十一月大坂竹本座に於て始て芝居を勤む。夫よりこのかた国太夫節とて諸国に聞ゆ」(声曲類纂)とされている。
同書によると、その後、享保の末に江戸へ下り宮古路豊後掾と改めた、とあるが、豊後掾を受領したのは江戸へ下る前の享保十四年(1729)頃のこととされている。豊後掾が江戸へ出て来たのは確かだが、その時期については諸説あって定め難い。おそらく、享保の末頃だと推定される。
<続く/作成中>
豊後節の祖は宮古路豊後掾と云い、「都一中が門人にして、始は都国太夫半中と號し、後に宮古路国太夫と改め、一中節を変化せしめ一流を語り出し、享保三年戌十一月大坂竹本座に於て始て芝居を勤む。夫よりこのかた国太夫節とて諸国に聞ゆ」(声曲類纂)とされている。
同書によると、その後、享保の末に江戸へ下り宮古路豊後掾と改めた、とあるが、豊後掾を受領したのは江戸へ下る前の享保十四年(1729)頃のこととされている。豊後掾が江戸へ出て来たのは確かだが、その時期については諸説あって定め難い。おそらく、享保の末頃だと推定される。
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